ウルグアイのピアニスト、ルイス・パスケーのこと
ウルグアイのピアニスト、ルイス・パスケーのこと
ウルグアイのタンゴ史の中で、特に先進的な演奏活動について考えるとき、ピアニストのルイス・パスケー Luis Pasquetの名前は忘れられない。
ルイス・パスケーは1917年、サルトの生まれ。同名の父はクラシックのギタリストで、パラグアイの巨人アグスティン・バリオスとも親交があったという、ウルグアイのギター普及の重要人物だったそうだ。地元でクラシックの勉強を始め、19歳でモンテビデオに上京、1940年代から主にジャズ界(特にディキシーランド・スタイル)で活躍し始める。1950年代にはラテン系・ブラジル系の演奏や歌手伴奏も器用にこなすようになり、一方で1958年から1972年までSODRE(ラジオの公共放送のための交響楽団)の指揮者となった。途中1965年から69年まではレバノンの首都ベイルートのカジノで演奏していたらしい。そのレバノン滞在の前後に現代タンゴ界にも大きな足跡を残す。


先頃亡くなった詩人オラシオ・フェレールも創立者の一人だったウルグアイの現代タンゴ鑑賞団体「エル・クルブ・デ・ラ・グアルディア・ヌエバ」の企画で制作したルイス・パスケー七重奏団の4曲入り17センチ盤「タンゴ」(1965年)はウルグアイ現代タンゴの一大傑作である。フランシスコ・デ・カロ作「死んだページ」、自作「スプレーン」、ピアソラ作「ピカソ」、グループでバンドネオンを担当してもいるオルディマル・カセレス作「バリオ・ラティーノ」という選曲で、会員向け頒布用の17センチ盤でしか発売されなかっため入手は難しいが、ウルグアイ・タンゴ史には欠かせない1枚である。
その後レバノンから帰った後制作されたと思われるのがピアノ、バイオリン、チェロ、コントラバスという四重奏による室内楽的スタイルのアルバムCantares del Mundo CM-10 “Tangos en rojo y en gris”である。片面は「ケ・ノーチェ」「リアチュエロの霧」「ガジョ・シエゴ」「モンマルトルの朝」「ラ・カチーラ」「スール」という名曲を取りあげ、もう片面はパスケー作の組曲で、「生き生きとした赤色」「古い赤色」「炎の赤色」「灰色の雨」「夜更かしの灰色」「灰色のタンゴ」という「赤色と灰色のタンゴ」組曲である。アルゼンチンのレオ・リぺスケル率いる「タンゴ最初の弦楽四重奏団」よりも、ピアノが入っている分、アティリオ・スタンポーネの1970年代以降のスタイルや、ウルグアイのマノーロ・グアルディアが率いたカメラータ・デ・タンゴの行き方に近いものがある。このアルバムも全く復刻・再発されていないが、同じ編曲を「エル・クルブ・デ・ラ・グアルディア・ヌエバ」の例会で演奏した時のライヴ録音7曲(1971年)がCD復刻されており(AYUI A/M42 CD “El tango del Club de la Guardia Nueva 1”)、現在のところこれがパスケーの唯一のCDである。


ウルグアイを出る直前、1972年5月~6月にピアノ・ソロのアルバムAYUI A/M11”Interpreta doce tango en piano solo”を録音する。研ぎ澄まされた響きで、タンゴ・ロマンサを中心に最高のピアノ・ソロを聞かせる。決して録音の多くないホアキン・モラの作品「エスクラボ」「フリオ」「マス・アジャ」「椿姫」、フランシスコ・デ・カロの「エスケーラス」「青い夢」「ロカ・ボエミア」が白眉で、他にも「わが街の灯」「最後の酔い」「私の隠れ家」「孤独」「アディオス・アディオス・コラソン」(ウルグアイ製の1958年のヒット歌謡タンゴの方ではなく、フレセド楽団のピアニスト、エミリオ・バルバトとフェリクス・リペスケルが作曲した大変珍しい作品)などひたすら美しいメロディを演奏している。こちらも残念ながら全く復刻されていない。

1972年パスケーは祖国を離れる。折しも極左都市ゲリラであるトゥパマロスと政府の交戦が激化、ピアノ・ソロを録音する1か月前に議会は内戦状態を宣言していた(現在のウルグアイの大統領「世界で一番貧しい大統領」としても知られるホセ・ムヒカは当時トゥパマロスの闘士で、まさにこの年逮捕・収監され以後13年間を刑務所で過ごすことになる)。 パスケーは最初はドイツに向かったようで、その年のうちにレクオーナ・キューバン・ボーイズのピアニストとしてドイツをツアーしたという(レクオーナ・キューバン・ボーイズは1971年に初来日公演を行っている。ちょっとタイミングが違ったらパスケーは日本に来ていたかもしれない)。
そして1973年ウルグアイでついに軍事クーデターが起こり、パスケーはその政治的言動からパスポートの更新を拒否され、祖国に帰ることが出来ず、そのままヨーロッパへの亡命を余儀なくされる。最終的にはノルウェーに落ち着き、その後ヘルシンキのオペラのバレエ団の伴奏と音楽学校の教員として過ごしたそうだ。
この才能ある音楽家ルイス・パスケーがどうしているのか、私は15年以上前からずっと気になっていたのだが、ウルグアイで訊いてもほとんどの人が消息を知らず、わずかにヨーロッパに行ってまったく帰ってきていない、ということしかわからなかった。
そんな折、2013年9月、私も講演を行ったウルグアイのコロキアムの参加者、フィンランドに亡命したチリ人アルフォンソ・パディージャ氏にパスケーのことを知らないか訊いてみた。パディージャ氏は「その人物のことは聞いたことがある。でも首都から離れたところに住んでいるので会ったことはない」という話だった。
その後フィンランド・タンゴをテーマにした映画「白夜のタンゴ」のことなどもあり、ふと思い出してWEBなどで確かめると、何と我々がコロキアムでパスケーの話をしていたそのわずか3週間前に、ルイス・パスケーはフィンランドのラーティで96歳の生涯を閉じていたことが分かった。ウルグアイの新聞にも訃報は出たが、その見出しは「ウルグアイで認められなかった重要な音楽家の死」というものだった。
つい先日、彼の1957年の彼のピアノ・トリオによるジャズのアルバムを入手した。得意としたディキシーランド・スタイルではなく、とても洗練された音色でジャズのスタンダードをさらりと弾いているのだが、結局この辺がパスケーの音楽性の一番根底にあるもののような気がする。このアルバムもはるか昔に消滅したアンタール・テレフンケン・レーベルのものなので、復刻されることは無いだろう。

あまり自己主張をしないウルグアイ人音楽家には時々あることなのだが、素晴らしい才能を持ちながらも器用さを買われていろいろな音楽に携わった結果、その偉大さが後世に伝わりにくい、というケースがある。しかもルイス・パスケーは長く祖国を離れてしまったため、余計その傾向が強まってしまったのだろう。
それでもジャズとタンゴを弾く彼のおだやかで華麗なピアノ・スタイルを聞くと、彼にとっては自然あふれる静かなフィンランドの生活は決して悪くなかったのだろう。
でも南米人にとってフィンランドは遠いのだろう。前述のウルグアイの新聞記事には堂々と「ルイス・パスケー、96歳でノルウェーで亡くなる」の見出しがついているのだ。本文中ではちゃんとオスロではなくヘルシンキと書かれているのに...

ウルグアイのタンゴ史の中で、特に先進的な演奏活動について考えるとき、ピアニストのルイス・パスケー Luis Pasquetの名前は忘れられない。
ルイス・パスケーは1917年、サルトの生まれ。同名の父はクラシックのギタリストで、パラグアイの巨人アグスティン・バリオスとも親交があったという、ウルグアイのギター普及の重要人物だったそうだ。地元でクラシックの勉強を始め、19歳でモンテビデオに上京、1940年代から主にジャズ界(特にディキシーランド・スタイル)で活躍し始める。1950年代にはラテン系・ブラジル系の演奏や歌手伴奏も器用にこなすようになり、一方で1958年から1972年までSODRE(ラジオの公共放送のための交響楽団)の指揮者となった。途中1965年から69年まではレバノンの首都ベイルートのカジノで演奏していたらしい。そのレバノン滞在の前後に現代タンゴ界にも大きな足跡を残す。


先頃亡くなった詩人オラシオ・フェレールも創立者の一人だったウルグアイの現代タンゴ鑑賞団体「エル・クルブ・デ・ラ・グアルディア・ヌエバ」の企画で制作したルイス・パスケー七重奏団の4曲入り17センチ盤「タンゴ」(1965年)はウルグアイ現代タンゴの一大傑作である。フランシスコ・デ・カロ作「死んだページ」、自作「スプレーン」、ピアソラ作「ピカソ」、グループでバンドネオンを担当してもいるオルディマル・カセレス作「バリオ・ラティーノ」という選曲で、会員向け頒布用の17センチ盤でしか発売されなかっため入手は難しいが、ウルグアイ・タンゴ史には欠かせない1枚である。
その後レバノンから帰った後制作されたと思われるのがピアノ、バイオリン、チェロ、コントラバスという四重奏による室内楽的スタイルのアルバムCantares del Mundo CM-10 “Tangos en rojo y en gris”である。片面は「ケ・ノーチェ」「リアチュエロの霧」「ガジョ・シエゴ」「モンマルトルの朝」「ラ・カチーラ」「スール」という名曲を取りあげ、もう片面はパスケー作の組曲で、「生き生きとした赤色」「古い赤色」「炎の赤色」「灰色の雨」「夜更かしの灰色」「灰色のタンゴ」という「赤色と灰色のタンゴ」組曲である。アルゼンチンのレオ・リぺスケル率いる「タンゴ最初の弦楽四重奏団」よりも、ピアノが入っている分、アティリオ・スタンポーネの1970年代以降のスタイルや、ウルグアイのマノーロ・グアルディアが率いたカメラータ・デ・タンゴの行き方に近いものがある。このアルバムも全く復刻・再発されていないが、同じ編曲を「エル・クルブ・デ・ラ・グアルディア・ヌエバ」の例会で演奏した時のライヴ録音7曲(1971年)がCD復刻されており(AYUI A/M42 CD “El tango del Club de la Guardia Nueva 1”)、現在のところこれがパスケーの唯一のCDである。


ウルグアイを出る直前、1972年5月~6月にピアノ・ソロのアルバムAYUI A/M11”Interpreta doce tango en piano solo”を録音する。研ぎ澄まされた響きで、タンゴ・ロマンサを中心に最高のピアノ・ソロを聞かせる。決して録音の多くないホアキン・モラの作品「エスクラボ」「フリオ」「マス・アジャ」「椿姫」、フランシスコ・デ・カロの「エスケーラス」「青い夢」「ロカ・ボエミア」が白眉で、他にも「わが街の灯」「最後の酔い」「私の隠れ家」「孤独」「アディオス・アディオス・コラソン」(ウルグアイ製の1958年のヒット歌謡タンゴの方ではなく、フレセド楽団のピアニスト、エミリオ・バルバトとフェリクス・リペスケルが作曲した大変珍しい作品)などひたすら美しいメロディを演奏している。こちらも残念ながら全く復刻されていない。

1972年パスケーは祖国を離れる。折しも極左都市ゲリラであるトゥパマロスと政府の交戦が激化、ピアノ・ソロを録音する1か月前に議会は内戦状態を宣言していた(現在のウルグアイの大統領「世界で一番貧しい大統領」としても知られるホセ・ムヒカは当時トゥパマロスの闘士で、まさにこの年逮捕・収監され以後13年間を刑務所で過ごすことになる)。 パスケーは最初はドイツに向かったようで、その年のうちにレクオーナ・キューバン・ボーイズのピアニストとしてドイツをツアーしたという(レクオーナ・キューバン・ボーイズは1971年に初来日公演を行っている。ちょっとタイミングが違ったらパスケーは日本に来ていたかもしれない)。
そして1973年ウルグアイでついに軍事クーデターが起こり、パスケーはその政治的言動からパスポートの更新を拒否され、祖国に帰ることが出来ず、そのままヨーロッパへの亡命を余儀なくされる。最終的にはノルウェーに落ち着き、その後ヘルシンキのオペラのバレエ団の伴奏と音楽学校の教員として過ごしたそうだ。
この才能ある音楽家ルイス・パスケーがどうしているのか、私は15年以上前からずっと気になっていたのだが、ウルグアイで訊いてもほとんどの人が消息を知らず、わずかにヨーロッパに行ってまったく帰ってきていない、ということしかわからなかった。
そんな折、2013年9月、私も講演を行ったウルグアイのコロキアムの参加者、フィンランドに亡命したチリ人アルフォンソ・パディージャ氏にパスケーのことを知らないか訊いてみた。パディージャ氏は「その人物のことは聞いたことがある。でも首都から離れたところに住んでいるので会ったことはない」という話だった。
その後フィンランド・タンゴをテーマにした映画「白夜のタンゴ」のことなどもあり、ふと思い出してWEBなどで確かめると、何と我々がコロキアムでパスケーの話をしていたそのわずか3週間前に、ルイス・パスケーはフィンランドのラーティで96歳の生涯を閉じていたことが分かった。ウルグアイの新聞にも訃報は出たが、その見出しは「ウルグアイで認められなかった重要な音楽家の死」というものだった。
つい先日、彼の1957年の彼のピアノ・トリオによるジャズのアルバムを入手した。得意としたディキシーランド・スタイルではなく、とても洗練された音色でジャズのスタンダードをさらりと弾いているのだが、結局この辺がパスケーの音楽性の一番根底にあるもののような気がする。このアルバムもはるか昔に消滅したアンタール・テレフンケン・レーベルのものなので、復刻されることは無いだろう。

あまり自己主張をしないウルグアイ人音楽家には時々あることなのだが、素晴らしい才能を持ちながらも器用さを買われていろいろな音楽に携わった結果、その偉大さが後世に伝わりにくい、というケースがある。しかもルイス・パスケーは長く祖国を離れてしまったため、余計その傾向が強まってしまったのだろう。
それでもジャズとタンゴを弾く彼のおだやかで華麗なピアノ・スタイルを聞くと、彼にとっては自然あふれる静かなフィンランドの生活は決して悪くなかったのだろう。
でも南米人にとってフィンランドは遠いのだろう。前述のウルグアイの新聞記事には堂々と「ルイス・パスケー、96歳でノルウェーで亡くなる」の見出しがついているのだ。本文中ではちゃんとオスロではなくヘルシンキと書かれているのに...

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