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ガブリエーレ・ミラバッシさんとのおしゃべり

今年10月、本年2回目となるブラジルのピアニスト、アンドレ・メマーリの来日公演が行われた。前回はソロだったが、今回はイタリアの名クラリネット奏者ガブリエーレ・ミラバッシとの共演である。多少スタッフとしてお手伝いさせていただいている関係もあって、東京公演の際にミラバッシさんといろいろ話したので、ここに少しその内容を書き留めておきたい。

ミラバッシさんは生粋のイタリア人だが、ブラジル音楽に傾倒し、完全にポルトガル語をマスターされている(もともとシコ・ブアルキの世界が大好きで、その歌詞をよりよく理解したいと思ってポルトガル語を学び始めたのだそうだ。なんと正統かつ素晴らしい動機だろう)。スペイン語はイタリア語とポルトガル語の兄弟言語なので、ミラバッシさんと私はスペイン語⇔ポルトガル語で十分やり取りすることができたわけだ。

別にインタビューではなかったので、ただとりとめなく音楽の話をしていたのだが、話していてわかったのは、クラリネットに関してはかなり古い音源までよく聞いているということ。ブラジルではショーロのアベル・フェヘイラはもちろんだが、その先駆者であるルイス・アメリカーノやカシンビーニョの名も登場、ジャズでもオマー・シメオン、ジョージ・ルイス、ピー・ウィー・ラッセルなどの名はもちろん挙がっていたが、興味深いのは自分にとって神様だといって挙げたのがバーニー・ビガード(1906-1980)だったこと。デューク・エリントン楽団の重要ソロイストで、その後ルイ・アームストロングを始めニューオリンズ系のスタイルでも活躍した名手。以前他のジャズのクラリネット奏者(複数)もビガードの名を一番に挙げているのを読んだことがあり、プロ奏者からみるとビガードには特に光るものがあるのだろうと推測する。

MMehmari-Mirabassi Ensaio


ミラバッシさんがクラシック的な安定した響きと技巧を持ちながらも、即興性に優れたスタイルやフレージングを心得ているのは、イタリアの中でもペルージアの出身であることが大きいのだろう。ミラバッシさんの兄弟ジョヴァンニ・ミラバッシはジャズ・ピアニストとして来日多数・日本盤多数で、日本ではガブリエーレさんよりはるかに知名度が高い存在なのはよく知られている。2人の音楽の根底にはペルージャで長年行われているジャズ・フェスティバルの影響が少なからずあるのだろう。
その話が出た時、かつてジャズ・ピアニストのローランド・ハナが「ペルージャ」という美しい名曲を残しているよねという話をすると「よく知ってるねえ!」。

音楽とは関係ないが、ミラバッシさんのことで驚いたのは食べるのと飲むのが異常に早いこと。私は日本人だし、もともと食べるのは早い方なのだが、私より早い海外の人はめったに見ない。アルゼンチン人も基本的にイタリア系の影響が大きいので、食べながらゆったりコミュニケーションしていて、食べるのが遅くなる人の方が多いのだ。ところがミラバッシさんは早い。たぶんお酒を飲まないせいもあると思うが、ピーチネクターを頼んだかと思うとあっと言う間に飲み干して2杯目。現地でも日本食に親しんできたとは言うものの、やはり生ハム、チーズ、パスタ、パンには目がなく、あっという間に食べてしまう。人としゃべっていても全くペースが崩れないのは面白い。

アンドレさんとの出会いは、ミラバッシさんが共演しアルバムを制作しているブラジルの名ギタリスト、ギンガの紹介だったそうで、あっという間に意気投合したのだそうだ。(ミラバッシ&ギンガのアルバム”Graffiando Vento” EGEA SCA107 もメマーリさんとのデュオに負けず劣らず素晴らしいもの)。ミラバッシさんはメマーリさんより10歳ほど年が上なのだが、それだけに聞いてきた音楽にも違いがあって、それも2人のデュオを面白くしている要素になっている気がする。2人のアルバムとしては2009年の「ミラマリ」(Mira Mari)があるのみだが、次のアルバムの計画があるらしく、ぜひ完成が待ち望まれるところだ。

2日目の公演後はずっと話している人がいたので、全く話が聞けなかったのが残念だったが、それにしても見据えている音楽の幅の広さがさすが!と思えるわけで、そういう人がブラジル音楽に引き込まれていく、というあたりがブラジル音楽の奥の深さ・幅の広さといったものを表しているような気がする。もっとも2人の音楽はもはやブラジル音楽の枠にもとどまらない自由なものだが。

Mrabassi1

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アルゼンチン・パラナー滞在記(2011年3月)

自分の備忘録の意味も含め、今年3月に訪れたアルゼンチン・パラナーでの記録をここに残しておく。

*************

 今年の3月、初めてパラナーを訪れた。これまでアルゼンチンを10回以上訪れているが、パラナーに行ったのは初めてのこと。昨年来日したカルロス・アギーレから是非と言われた経緯もあり、アギーレの家に滞在させてもらいながら、わずか3日間だったが、現地のミュージシャンとの交流も出来た有意義な旅となった。

初日
 朝食もそこそこに9:15発のクロリンダ行きバス(ラ・トスタデンセ社)に乗るため、レティーロのバス・ターミナルへ移動。朝早かったのでホテルでテレビを見ていなかったのだが、レティーロへ向かうタクシーの運転手に、日本の北の方で大地震があったことを聞かされる。ターミナルのテレビでかなりひどい映像を確認、どうしたものかとまどっていると、まもなく日本にいる相方から連絡を受けた歌手フロレンシア・ルイスが電話をくれ、とりあえず家族と家の無事を確認、かなり不安は残ったがそのまま旅を続けることにするなった。実際のところ、パラナー滞在中はほとんどテレビなし、インターネットなしの生活だったため、日本の情報は断片的にしか得られなかった。そのおかげでパラナー滞在を予定通り過ごせたとも言えるが、あの地震の瞬間とその後の数日間日本にいなかったということは、今もって自分の中で複雑な思いとなって残っている。
 アルゼンチン第2の都市ロサリオを経由し、つごう6時間半ほどでサンタフェに到着。ラ・トスタデンセのバスは快適で、ちゃんと暖かいエンパナーダのサービスがあった。
 最終目的地はパラナーなのだが、この日はサンタフェでカルロス・アギーレのコンサートがあるので、会場に直接おじゃますることにした。コンサート会場は Fabrica Cultural El Molinoといい、大きな工場の跡地を複合文化施設(野外コンサート会場、絵や芸術作品の展示、子供が学べる工作場など)にしたもので、昔のまま残っている工場の部分も、いずれ劇団の稽古場として使えるよう修理中だという。この施設の長は以前ロサリオでも同じような形で文化施設を作り成功しているのだそうだ。
この日は「夏の空の下で」という無料コンサート・シリーズで、カルロス・アギーレにフアン・キンテーロ&ルナ・モンティの夫婦コンビが共演という豪華版。リハーサルではフアン・キンテーロ=ルナ・モンティ夫妻の可愛い娘さんがやんちゃしてルナ・モンティに怒られる一幕も。どうやら教育の主導権はルナにあるらしく、フアンはいつも通りのおだやかな調子。
無料ということもあって地域の人たちがたくさん集まって盛況。正直コンサートの音響は今ひとつだったが、施設の雰囲気や照明が素晴らしい演奏とあいまった充実した夜だった。別の場所でのリハーサルの様子も見ていたが、あの程度のリハーサルで3人共演の部分も本番でばっちり出来てしまうのはさすが。終了後、演奏者・関係者と近くのレストランで食事。その後私はアギーレの車で一緒にパラナーに向かい、到着したのは夜中の3時近かったかと思う。アルゼンチンの旅で初の長距離バス&長丁場でへとへと。エレピや楽器の置いてある部屋で眠らさせていただく(アギーレの家にあったピアノはエレピだけでした)。

C.Aguirre en El Molino J.Quintero&Luna Monti en en El Molino



2日目
 前日が遅かったこともあり、朝~昼はのんびり休みつつゆっくり過ごす。アギーレの家には小鳥が1羽飼われている。足をけがして動けなくなっていたのをみかねて、家に連れてきて飼っているのだ。人が来るとゆっくり近づいてきて様子をうかがう賢い小鳥だ。あと近所には周り数件で面倒を見ている犬が何匹か放し飼いになっている。その中でも主にアギーレの家の前にいるという一匹はのどかなパラナーを象徴するようないい子であった(ドアが開いても決して家の中には入らない)。

Perrito de C.Aguirre


夕方頃にアギーレの運転する車でセギにあるアギーレの両親の家に向かう。家を出てほどなく、まったく予想だにしない突然の雷鳴と極度の集中豪雨。残念ながら周りの景色は全くみえず、道路の視界すらかなりきびしい状態。さすがに運転担当のアギーレ氏、いつになく真剣なまなざしで言葉も少ない。しかも、途中で派手にぶつけた2台の車の交通事故現場の脇を通った。いやはやすごい天気の変わり様。

C.Aguirre conduce


パラナーから車で1時間半ほどの場所にあるセギはカルロス・アギーレの生まれ故郷であり、ご両親(アギーレはそれぞれ「チノ」「ファニー」と呼んでいた)は現在もそこで暮らしている。お父さんはロサリオ生まれの医師で、当時医者が少なかった地域振興のため1964年セギに移住、以後40年以上に渡って診療を続けてきた。現在は引退しているが、家の隣には彼のお弟子さんたちが継承して大きくなった立派な総合病院が建っている。お父さんはいわば地元の名士である。実は数ヶ月前にお父さん、お母さんがあいついで体調を崩し入院、それが心配で時間のある時にアギーレは両親のもとを訪れることにしているようだ。
 実は私の母方の祖父も医師だったので、まだ診療所の雰囲気を残している部屋の雰囲気には何か懐かしいものを感じた。医師として長年過ごしてきた思い出話を聞きながら、せっかくだから一緒に見よう、と見せてくれたDVDは何とオリバー・ジョーンズ・トリオのライヴ。お父さん・お母さん共に無類のジャズ好きで、特にオスカー・ピーターソンの大ファン。ピーターソンと同じカナダ出身の腕利きピアニスト、オリバー・ジョーンズのモントリオール・ジャズ・フェスティバルのライヴを最近入手して(といっても違法コピーのようだったが…どっちみち正規版はブエノスアイレス以外では入手できないだろう)、今のお気に入りだったということらしい。しかしなぜかカルロスは席をはずして近所の人と話などしていて、結局私とご両親の3人で紅茶を飲みながらジャズのDVDを見るという不思議な状況となった。聞いたところでは、お父さんはカルロスにオスカー・ピーターソンのようなジャズ・ピアニストになってもらいたかったのだそうで、音楽的な方向性で対立したことなどもあったらしく、ジャズのDVDを見ている場には居にくかったということのようだ。
 すっかり日も暮れて、雨もあがり、再びパラナーへ。まだはるかには雷鳴とどろくも、行きよりはかなりまし。途中、アギーレの通ったという小学校を横目に、さらにその小学校の同級生が経営するガソリンスタンドで給油しつつ、帰還。

Con los padres de Carlos Aguirre


3日目
 朝ごはんの後、アギーレの車でパラナー中心部へ。旧港、新港やパラナーの一番古い地域などめぐりつつ、ガソリンスタンドでメールチェック(1ヶ月ほど前にアギーレの家の前の大木が嵐で倒れ、電話線を切ってしまい、以来アギーレは家の中では特定の場所でしか電波が入らない携帯電話と、時折訪れるこのガソリンスタンドでのインターネットが連絡手段という状況だったのだ。どうりでメールの返事がすぐに来ないわけだ…)。その後アギーレ宅に戻り、ギタリストのシルビーナ・ロペスと会う。シルビーナはアギーレ・グループのメンバーとして録音に参加したこともあり、クラシカルなソロ・アルバムはシャグラダメドラ・レーベルのギター・シリーズから出ている(現在品切れ中でデザインを変えて再発売するか検討中とのこと)。明確にクラシカルなタイプだが、土地のリズムを愛してやまない。数か月前に世を去ったというパラナーの偉大なギタリスト、エル・スルド・マルティネスの作品も含め数曲演奏してくれたが、端正で折り目正しい、基礎を積んだ演奏家の音であった。その後みんなで家の裏庭でひなたぼっこしたり、昼食のラビオリをご馳走になったりしつつゆるやかに時間は過ぎ、アギーレ夫人ルサさんはシルビーナさんの車に乗って買い物へ、アギーレも急遽決まった映画音楽の録音のため外出(この映画はアルゼンチン各地の、たくましく生きていく女性に焦点をあてたドキュメンタリーで、登場する女性一人づつにテーマを作って録音するのだそうだ)。私一人がアギーレ宅で留守番という妙な状態になる。せっかくなので、許可をもらってアギーレのCD棚を見せてもらう。入手できていないシャグラダメドラ・レーベルの作品群、アギーレがゲスト参加したさまざまな作品とその関連作品など興味津々。でもあまりきっちり整理するタイプではなく、かなりおおざっぱな置き方になっているが、引っ越ししてからあまり時間がないようで、そのせいもあるのだろう(このCDにはついてはまたいずれまとめる)。
よる、日も暮れたころ、アギーレが戻ってきて、一緒にフルート奏者ルイス・バルビエロの家に向けて移動。途中、名盤「ルス・デ・アグア」のピアニスト、セバスティアン・マッキの家に寄る。かねてからこの機会に会えるよう頼んでいたのだが、全く連絡がつかず、「ああ、大丈夫、大丈夫。家もすぐ近所だし」と私に言ったアギーレは実は焦っていたのだ。幸運にもマッキは家にいて、会う約束をとりつける。結局マッキの携帯電話が壊れたらしい(それで連絡が来なければ仕方がないか、ということになるあたりがパラナーらしいのんびりさ加減)。
ルイス・バルビエロの家に到着。ルイスはカルロス・アギーレ、ラミロ・ガージョと共にシャグラダメドラ・レーベルをスタートさせた人物であり、地元のミュージシャンをたくさん家に呼んでいてくれた。ハープ奏者でもあるというバルビエロの奥さんが作ってくれたレンズ豆のギソ(シチューのような煮込み)をいただきつつ、演奏や話をきく。
 バルビエロ(ここではフルートではなく歌とギター)+ギター2名によるフォルクローレのトリオ、バルビエロ(フルート)とギター、パンデイロによるショーロのトリオ(普段はもう一人加わるらしい)、遅れて駆けつけたセバスティアン・マッキ(ピアノ)とギターのデュオなどいろいろ聞かせてくれた。それにしてもマッキのピアノと作曲のセンスの鋭さには脱帽。ブラジルで学んだものがうまく反映されていると思うが、新しい響きとハーモニーの感覚がずば抜けている。

Amigos del Parana en la casa de Luis Barbiero Sebastian Macchi



 1時ごろ、みんなは帰り、そこに仕事を終えたアギーレが再登場(私を送った後またスタジオに戻っていたのだ)。残った面々でぐだぐだと過ごしつつ、なぜかそこにあったバンドネオンを私が弾き、バルビエロのフルート、アギーレのギターで「バンドネオンの嘆き」とか「クンパルシータ」など遊びながら演奏。その後バルビエロ=ガージョ=アギーレが3人一緒に暮らしていた頃に作ったタンゴの有名曲「ウノ」の替え歌バージョンも聞かせてもらい(ブエノスアイレスに戻った後、ラミーロにこの話をしたら爆笑していた。古き良き青春時代だったのだろう。)結局アギーレ家に戻ったのはまたまた夜中の3時。ルイスからはお土産にパラナーにしかないというオレンジ・ジュース(Frescorといい、水や炭酸で割って飲む濃縮ジュース。あんまりナチュラルなテイストではないのだが、いかにもアルゼンチン人が好みそうな感じである。グレープフルーツ味もあって、私はそちらの方がより好み)を頂き、日本まで持ち帰った。

4日目
 先に書いた映画音楽のアギーレの録音が忙しく、申し訳ないので切りあげてブエノスアイレスに戻ることにした。ターミナルへ行く途中、とあるオフィスに立ち寄ったアギーレは、シャグラダメドラ・レーベルの最近の作品と、ジャケット・デザインを変更して再発売したギター・シリーズ(以前の手作りジャケットは素晴らしかったが、やはりたくさん流通させるには限界があるようだ)を何点かくれた。前日にはシャグラダの最新作で、「まだ私の手元に1枚しかないけど、どうせそのうちたくさん来るからあげるよ」といってくれたピアノ・シリーズ第1弾、ロロ・ロッシのアルバムもあった。ブエノスアイレスに帰ってから聞いたが、実に素晴らしく、アギーレのお弟子さんならではの音と響き(現在は輸入盤店などにだいぶ流通しているはず)。マテ茶器などのお土産もいただき、行きとは別の会社のバスでパラナーを離れ(正直行きの「ラ・トスタデンセ」の方がよかった。温かいエンパナーダと乾ききったハム・サンドイッチの差は大きい)、ロサリオを経由し17時頃、無事ブエノスアイレスに到着。

 いやはや、予想通りののんびりペースだったが、パラナーで音楽をやっていくということ、自然と対峙していくということ、その2つがどのように結び付けられているのかがよくわかった数日間だった。何より一訪問客を暖かく音楽で迎えたくれた皆さんに深く感謝したいと思う。また見知らぬ人も含め、多くの方から日本の地震を心配する言葉をかけていただいた。アルゼンチンの(特にテレビ)報道は決して正確なものではなかったが、ブエノスアイレスの人よりもパラナーの人々の方がよほど親身に事態をとらえていたのが意外なほどだった。
 いつかまたもっと時間をとってパラナーを再訪したいと切に思う。
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