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名門アバロス兄弟の軌跡~ビティージョ94歳の最新録音

 アバロス兄弟 Los Hermanos Abalosはアルゼンチンのフォルクローレの歴史において、北西部のリズムをラジオやレコードを通じて、わかりやすい形で紹介した存在として先駆的な巨星である。その唯一の存命者であり、本年94歳というビティージョ・アバロス Vitillo Abalosの新譜「黄金のレコード」(El disco de oro)が昨年発表された。残念ながら日本のメディアではちゃんと紹介されていないようなので、ここにあらためて記しておきたい。

Vitillo Abalos CD 052

 「アバロス兄弟」はサンティアゴ・デル・エステロ州出身(厳密には両親がブエノスアイレスにいた時に生まれたものも含まれている)の実の兄弟たちによって1939年から活動を開始した。上からナポレオン・ベンハミン(愛称マチンゴ)、アドルフォ、ロベルト・ウィルソン、ビクトル・マヌエル(愛称ビティージョ)、マルセロ・ラウル(愛称マチャーコ)の5人兄弟で、基本はアドルフォのピアノ、ビティージョのボンボ、後の3人がギター、歌は全員で、というものだが、曲によっては持ちかえでケーナやチャランゴも演奏した。

 結成のきっかけは、1938年にアドルフォとマチンゴがブエノスアイレス大学で化学を勉強するため移住したことだった。2人は以前カルロス・ガルデルの歌う民謡調ガトを聞いて、歌い方もリズムも本当のガトではないと感じ、ブエノスアイレスの人たちに本物のガトを聞いてもらわなくてはいけない、という思いがあったという。ほどなくデュオを結成、ピアノのあるバーでしばらく演奏していたが、当時ピアノ演奏によるフォルクローレは大変珍しかったことも手伝って、ラディオ・エル・ムンドのプロデューサーに見出され、即契約とあいなった。翌年、翌々年にビティージョとマチャーコがそれぞれ上京、1942年にはロベルトが上京し、5人組のエルマノス・アバロスが完成する。

Hnos Abalos Nostalgias SP 243

同年、タンゴ・ピアニストのルシオ・デマーレの兄で、アルゼンチン映画界を代表する監督だったルカス・デマーレ監督で、タンゴの作詞家としても名高いオメロ・マンシの脚本による名作「ガウチョ戦争」 La guerra gauchaの音楽を担当、そこに登場した彼らの最大のヒット曲「谷間のカルナバリート」 Carnavalito quebradeñoによって、一躍その名を知られるようになる。
 以来、ラジオ、レコーディング(長くRCAビクトルだったが、1940年代の一時期にオデオン、1960年代以降ステントール、コルンビア、ミクロフォンにも録音している)、ペーニャ(一時期「アチャライ・ウアシ」という自分たちの店も持っていた)などで広く活躍、1940年代から高まるフォルクローレの隆盛をリードする存在となった。
1952年には初のLPを録音、そのシリーズ「我らのダンス」Nuestras danzasはサンバ、エスコンディード、ガト、パリート、クアンドなど北西部を中心に代表的な形式を、ピアノとギターを中心としたわかりやすい演奏で収録、フォルクローレ・ダンスの教則用という需要もあってCD時代まで長くベストセラーとなる。

Hermanos Abalos RCA Nuestras danzas RCA Camden 3LPS 566

1966年には来日公演も行った。当時フォルクローレといえば、その少し前に来日していたエドゥアルド・ファルー、アタウアルパ・ユパンキ、スーマ・パスといったアルゼンチンのギター弾き語りスタイルのイメージがほとんどで、アバロス兄弟のスタイルはひときわ民俗的色彩の濃いものだった。残念ながらあまり大きな話題とはならなかったが(たぶんこのタイミングでの来日は早すぎたのだろう)、日本でケーナの演奏がはじめて聞かれたのもこの時だったはずである。(本CD新録音⑧のChacarera del sol nacienteはこの時の印象だろうか?)

ABALOS

その後も断続的に60年近く活動してきたアバロス兄弟だったが、2000年にマチャーコ、2001年にロベルト、2004年にマチンゴが死去した。ピアノのアドルフォは2000年からソロ活動を行い、珠玉のアルバムを残したが、2008年に死去。1922年4月30日生まれのビティージョだけが今も94歳で健在なのである。

実はビティージョは1997年、75歳の時に一度引退を発表しているのだが、その後ほどなく若手の演奏家と一緒に「ビティージョ・アバロスの中庭」というショウを行い好評を得、2011年と2012年にはアルゼンチン全土をツアー、2013年からはラジオ番組も持っているそうだ。そして94歳になった2016年、「エル・ディスコ・デ・オロ、フォルクローレ・デ・1940」が発表される。2枚組のCDアルバムで、1枚はエルマノス・アバロスの1940~50年代のRCA録音の復刻だが、もう1枚は新録音で、②フアンホ・ドミンゲス(ギター)、⑨⑩ハイメ・トーレス(チャランゴ)、ペテコ・カラバハル(バイオリンと歌)、⑬打楽器集団ボンバ・デ・ティエンポ、⑫イルダ・エレーラ(ピアノ)、⑭ファクンド・サラビア(歌)、⑬アクセル・クリヒエル(歌)、③リリアナ・エレーロ=ラリ・バリオヌエボ=ペドロ・ロッシ、④レオポルド・フェデリコ(生涯唯一のチャカレーラの録音、ギターのゲストにウーゴ・リバスも)、⑪オマール・モジョといった、フォルクローレはもちろん、アルゼンチン・タンゴやロックも含めた大ベテランから若手まで多彩なゲストを迎えたものになっている。⑥には現在のアバロス一族も参加する。
まだフォルクローレが全国的に知られていなかった時代から(最初の頃、「君たちはボリビアから来たの?」と聞かれたりしたそうだ)、ボンボ一筋でサンティアゴの味を伝えてきたアバロス兄弟最後の一人、ぜひその歴史的重みを新旧の録音でぜひじっくり味わっていただきたい。

曲目 新録音CD1:
①ペテコ・カラバハルによるイントロ Presentacion Peteco Carabajal
②チャイコフスキーのガト Gatito de Tchaikovski
③ハンカチを振りながら Agitando panuelos
④ラ・フゲトーナ(遊び好きのチャカレーラ) La juguetona
⑤宇宙のビダーラ Vidala del universo
⑥チャカレーラ・コプレーラ Chacarera coplera
⑦太陽いずるチャカレーラ Chacarera del sol naciente
⑧デ・ロス・アンヘリートス De los angelitos
⑨谷間のカルナバリート Carnavalito quebradeno
⑩焚き火のそばで Juntito al fogon
⑪炭焼き女と人は呼ぶ Me llaman la carbonera
⑫46 La cuarenta y seis
⑬エル・ウトゥリータ El utulita
⑭サンティアゴの郷愁 Nostalgias santiaguenas
⑮ボンボおじさんと踊ろう Bailando con el bombisto
⑯チャカループとビティージョのサパテオ Chacaloop y zapateo de Vitillo

CD2:1940~50年代のエルマノス・アバロスのRCA録音20曲を収録、新録音と同じ曲目も多数
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ペルー音楽初期録音の貴重な記録~CD「マルティン・チャンビの時代の音楽」

 1917年から1937年までのペルー音楽の録音を復刻した大変興味深いアルバムが発売された。タイトルの「マルティン・チャンビ」は1891年ペルーのプーノに生まれた写真家の名前で、ケチュア語を主要言語とする貧しい農村の出身だったが、14歳で鉱石の輸出会社に就職するため上京、そこでイギリス人の写真家と出会い、1908年アレキーパに移り、写真を撮り始める。先住民族や祝祭などさまざまな風俗を記録に残し、その視線は写真とメディアそのものに内在していた白人的な視点に大きく影響を受けつつも、自己の出自である先住民やメソティーソの視点も持っていた。1973年に亡くなり、国際的に評価され始めたのは1990年代だという。表紙の写真はもちろん、中にももう1点の写真が掲載されている。このアルバムに収録された音源はチャンビがもっとも多くの写真を撮っていた時期なのである。
CD Martin Chambi 048

Martin Chambi Carlos Prieto Libro 1

 アルバムの内容とチャンビの写真には時代以外の共通点がある。それは商業写真家として、スタジオで着飾った人々を撮るということと、民族のシンボルを記録するという2面性が、ペルー初期のレコーディングに見られる商業性と民族性の関係性に非常に近いものがあるからだ。
 一般的な感覚でいくと、録音が古ければ古いほど、より原初の形に近い音楽が聴ける、と思うかもしれないが、実際はそうではない。特に1926年以前はマイクがまだない時代であり、大きな音で録音できることが重要であり、そのためには大編成の編曲ができる、当時のポピュラー音楽界では少数派だったきちんと音楽教育を受けたアーティストが重用されることになる。実際このCDに収録されている1917~23年の録音はブラスバンドやオーケストラによるものである。

 マイクの使用が可能となって、ケーナ、アルパ、チャランゴなどの音もバランスよく録音可能となるが、それでもオーケストラや弦楽四重奏に編曲したフォルクローレなどが多い。まだ当時は民族の音を記録しようという意図はなく、クラシック音楽を聴く人にも鑑賞出来るようなスタイルを目指す(当時の人たちが考える「高い音楽性」)ということもあるだろう。2曲、現在ではあまり見られなくなったというエストゥディアンティーナ(スペイン伝来の弦楽器、アコーディオンなどのアンサンブルを指すが、ペルーではフォルクローレの演奏編成の一つとして確立されている)の録音もあるが、これは実際の演奏スタイルをそのまま記録したといえるが、比較的人数が多くて、録音に適していたからだろう。CDにはケーナとアルパのトリオ1曲と、アルパ・ソロ1曲があるが、これはむしろ珍しい方に入ると思う。

 ここに収録されている原盤はほとんどが北米盤である。おそらく1940年代までペルーには録音スタジオもプレス工場もなかったはずで、1930年代半ばまではアメリカ制作(最初期は譜面を持って、北米のスタジオオーケストラが演奏、その後は音楽家が出張するケースと録音隊が出張するケースがあったはずだ)、それ以降1950年代前半まではアルゼンチンのブエノスアイレスで録音・プレスが行われていた。その数は決して少なくないはずだが、これまでほとんど復刻されていない。上記のような録音事情を踏まえれば、なかなか面白い内容なのである。

 特に目を引くのは「コンドルは飛んでいく」の作曲者ダニエル・アロミア・ロブレス作曲①「アンデスの夜明け」である。「コンドルは飛んでいく」はペルー・フォルクローレで最も知られた曲であることは疑いないが、伝統的なモチーフをもとに、ロブレスが1913年にサルスエラ(スペイン語圏のオペレッタ)のために書いた曲であり、当時としては高い音楽的知識を持った人物の作曲によるものなのである。当のサルスエラは先住民労働者とアメリカ人鉱山主の闘争を描いた政治色の強かったせいもあり、後世には残らなかったが、1950年代から単独の楽曲として演奏されはじめ、1970年のサイモン&ガーファンクルによって世界的に知られるようになる(ただサイモン&ガーファンクル盤では作者不明の民謡扱いになっていた)。このCDの①をきくと、大げさなオーケストラ演奏にも思えるが、これはおそらくロブレス本人の編曲だと思われ、彼の目指した音楽はこういうものだったのではないか、「コンドルは飛んでいく」も、作者のオリジナルなイメージはこの録音に聞かれるような壮大なオーケストレーションだったのではないか、とも思うのだ。

私の手元には①と同時期のインターナショナル・オーケストラのSPと、その1年後、1929年の録音と推測されるブルンスウィック・レーベルの自作演奏(そちらはオルケスタ・ペルアーナ・デ・ロブレス)があるが、同じような編曲手法だ。
Nortena SP just 050
Huayno SP just 051

CDには他にもワルツの名曲「詩人メルガール」で知られるベニグノ・バジョン・ファルファン作曲⑩「マンコ・カパク」(フォックストロット)と⑬「クシクイ」(ワンステップ)などもあり、外国音楽とペルー伝統音楽の折衷に苦心してきた先駆者の姿も浮かぶ。(写真は私の自慢のコレクション、ファルファン作「メルガール」の1917年頃のレコード。)
Melgar SP just 049


私の手元にはタンゴのSP盤収集の傍らで入手できた1930~1940年代ブエノスアイレス録音のペルーとボリビア音楽のSPが100枚ほどある。アルゼンチンのスタジオ・ミュージシャンの助けも得て、また一味違う面白みがある。タンゴの復刻の進み具合に比して、この分野の復刻盤はゼロに近い。この盤の続編としてこの辺もいつの日か復刻されないものだろうか。

Entrevista de Caroline Neal, directora de la pelicula "Salgan & Salgan" (en castellano)

(1) ¿Cuándo y cómo empezó el proyecto de hacer una película sobre Horacio Salgán?

- A pesar de ser famoso, Horacio Salgán es un hombre muy privado que nunca había dado mucho acceso a la prensa. Tal vez no hubiera aceptado de entrada la idea de un documental sobre él y su hijo, pero Ignacio Varchausky y Carlos Villalba de TangoVia Buenos Aires le propusieron un proyecto, un “Año Salgán” en 2008, con muchas actividades incluyendo la re-formación de su orquesta típica con su hijo César en el piano, con conciertos en Buenos Aires y en un festival en Roma, la grabación de un disco para la colección “Raras Partituras” de la Biblioteca Nacional, y la publicación de un libro, con la Biblioteca Nacional, de los arreglos orquestales de Salgán en su propio puño y letra. Un proyecto hermoso. Me invitaron a filmar un registro documental del proyecto. Sabíamos que Horacio y César tenían una relación marcada por largas etapas sin contacto. La primera noche que nos juntamos con los Salgán era claro que la situación daba para un largometraje: eran dos caballeros con un trato muy amable y formal, casi distante, pero existía en sus miradas una historia mucho mas compleja por descubrir.

(2) ¿Por qué elijiste usted ese tema?

- Cuando conocí a Horacio y César, vi en su historia unos temas universales entre los padres y los hijos. Las expectativas y los miedos, el abandono y la reconciliación, el anhelo y el enojo, la distancia y la conexión. Mi propio padre, que había muerto un año antes, fue médico y aunque me hubiera gustado ser médica, no elegí la medicina, en parte por el miedo de no cumplir con sus expectativas. Admiré a César por su coraje de tocar el instrumento y la música de su padre, uno de los genios del tango, una leyenda viva de la música argentina. Quería entender cómo y porqué se animaba a seguir en los pasos del maestro Horacio Salgán, aunque le costaba bastante hacerlo.

Horacio Salgan Cesar Caroline F


(3) ¿Qué es el secreto de su larga vida del maestro según tu vista?

- Anoche hablamos con César sobre esta misma pregunta. Dije que para mí es su pasión, su compromiso con su trabajo que lo despierta en la noche y que le llena sus días. Horacio todavía trabaja aun con sus 100 años. Pero César agregó algo más: Horacio es siempre de buen humor. Siempre tiene un chiste listo y no guarda rencores. Como ven en la película, es conocido no solamente por la música, pero por los chistes también. Vive feliz.

(4) ¿Cuál es la escena que te gusta más en la película?

- Que pregunta difícil. Puede ser la escena con el pianito redondo, porque recuerdo la energía el día que filmamos: era la primera vez que padre e hijo iban a tocar juntos…y en un piano que no suena! Cuando empezaron a tararear, algo que los dos hacen cuando tocan siempre, no podía creer la belleza y la poesía del momento. También me gusta mucho la escena de Horacio merendando y César cocinando, por su cotidianidad. Es una escena larga, a propósito, que ofrece una experiencia del silencio y la separación que existía entre Horacio y César en ese momento, aunque estaban compartiendo un departamento pequeño. Cuando veo esa escena, siento mucho gratitud por la generosidad de Horacio y César en dejarme filmarles en su intimidad.

(5) ¿El piano redondo que apareció en la película y el afiche se hizo especialmente para esta película?

- El piano redondo es una obra del artista argentino Julio Fierro que se llama “Flor de Piano”. Julio es un amigo y cuando vi el piano me encantó y decidimos usarlo para el poster. El fotógrafo Carlos Furman sacó la foto. Un piano circular es una gran metáfora para este historia de padre e hijo; es el piano al final que les ayudó reencontrarse.

(6) ¿Hay más plan de hacer otra película suya?

- Tengo unas cosas cocinando “A Fuego Lento”. Otra película de tango más vinculada al baile, un documental sobre los Sufis en Argentina, y una comedia romántica para filmar en la Argentina y la India.

(7) Mensaje para el público japonés, por favor.

- Estoy muy agradecida que “Salgán & Salgán” se estrenó en el Sakura Tango Festival en Fukuoka este año y ojalá se pueda seguir su recorrido por Japón. Es una película hecha con mucho cuidado y mucho amor. La mayoría filmé con una cámara en mano, pero hay un par de escenas en las cuales usé un trípode en el departamento de César, donde la acción pasa dentro de un plano amplio y fijo. Seguramente esas escenas tienen la influencia de la poesía cinematográfica del gran Yasujiro Ozu, especialmente por los planos fijos de Tokyo Story. ¡Que don tenía Ozu por expresar la complejidad de las emociones humanas con gestos simples! Mi pequeño documental ni se acerca a la maestría de Ozu, pero ofrece una visita íntima con dos personas entrañables además de ser dos maestros del tango. Aunque la Argentina y Japón son países separados por tanto distancia, grandes maestros como los Salgán y como Ozu nos ayudan con su arte encontrar las tantas cosas que tenemos en común.


(8) Hay algún cambio en tu trabajo después de la película “Si sos brujo” hasta “Salgán & Salgán” como directora de la película.

- Mi escena favorita en “Si sos brujo” es la escena cuando Emilio toca el bandoneón en su cocina y su hija canta, con su mujer Lidia, Ignacio Varchausky y el perro como público. Es una escena muy personal e íntima. Cuando arranqué con “Salgán & Salgán”, mi deseo era que fuera “todo cocina”. Con Alberto Muñoz el co-guionista, priorizamos la línea narrativa sobre los elementos didácticos. “Salgán & Salgán” todavía utiliza la entrevista como un elemento narrativo. Tal vez en la próxima, dejo esa herramienta. Pero tal vez, no. La entrevista no es solamente una manera de compartir información. Es también una manera de mostrar como la persona entrevistada forma su propia historia y su manera de presentarse al mundo. Siempre revelamos más que la información hablada en la entrevista, y esa meta-información me interesa.

Cesar y Horacio Salgan

映画「サルガン&サルガン」監督、キャロライン・ニール・インタビュー

いよいよこの6月15日でめでたく100歳の誕生日を迎えるアルゼンチン・タンゴの巨匠オラシオ・サルガン。そのサルガンと息子のセサルの数奇な親子関係を軸にしたドキュメンタリー映画「サルガン&サルガン 父と子のタンゴ」の監督、キャロライン・ニールのインタビューをお届けしよう。「サルガン&サルガン」は今年3月、福岡の桜タンゴ・フェスティバルで1回だけ限定公開されたが、現在名古屋と東京で上映できるよう筆者が画策中。この映画の内容が気になっている人も多いと思うので、まずはインタビューで子の映画について知っていただければと思う。

なお、映画の主人公オラシオ・サルガンの人生については今年の5月号、6月号、7月号の「ラティーナ」に3号連載の形で書いているのでぜひご参照を。
salgan-salgan AHoracio Salgan Cesar Caroline FCesar y Horacio Salgan

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「サルガン&サルガン 父と子のタンゴ」 キャロライン・ニール監督 メール・インタビュー

・いつどのようにオラシオ・サルガンの映画を作るプロジェクトはスタートしたのですか?
-有名人であるにもかかわらず、オラシオ・サルガンはメディアと大きなつながりを持たない、プライベートをあまり公にしない人物だった。おそらくオラシオと息子のセサルについてのドキュメンタリーを作るというアイデアは初めから受け入れられないだろうと思っていた。しかしタンゴビア・ブエノスアイレスのイグナシオ・バルチャウスキーとカルロス・ビジャルバが2008年の「サルガン・イヤー」のプロジェクトをオラシオに提案したの。そこには多くの活動が含まれていて、その中にはセサルのピアノを中心としてオルケスタ・ティピカを再編成してブエノスアイレスでコンサートを行い、ローマのタンゴ・フェスティバルに出演して、国立図書館の「ララス・パルティトゥーラス」シリーズにために録音を行い、やはり国立図書館と共同でサルガン自身の手によるオーケストラ・アレンジを本として出版することなどが含まれていた。素晴らしいプロジェクトだったわ。そこで私はそのプロジェクトを映像ドキュメンタリーとして記録することを依頼されたの。その時すでに私たちはオラシオとセサルが、長年コンタクトがなかった末に今の関係にあることは知っていたわ。サルガン父子と私たちが会った最初の夜に、もうこのエピソードが長編映画に匹敵する内容であることは明らかだった。2人はとても丁寧でフォーマルに互いを紳士的に扱う関係で、距離がある感じだった。でもそのまなざしには描くことができないほど複雑なストーリーがあったのね。

・なぜこのテーマを選んだのですか?
-オラシオとセサルと知り合った時、私は彼ら二人の歴史に、どんな父と子の間にもあるいくつかの普遍的なテーマ、つまり期待と畏敬、放棄と和解、憧れと怒り、距離とつながり、といったテーマがあると思ったの。私の父もちょうど1年前に亡くなったんだけど、私の父は医者で、私を医者にしたかった、でも私は薬学を選ばなかった。それは部分的には父の期待を果たせないかもしれないという恐れからだったわ。私はセサルが楽器演奏に取り組み、タンゴの天才の一人であり、アルゼンチンの生きた伝説である自分の父親の音楽を演奏する勇気をもったことをたたえたいと思うわ。そこで、相当大変なことであるにもかかわらず、なぜどうやってマエストロ・オラシオ・サルガンのあとを続いていこうとしたのかが知りたくなったの。

・あなたからみて、オラシオ・サルガンの長生きの秘訣はどこにあると思いますか?
-ちょうど昨晩セサルと同じ質問について話したところ。私は、それは彼の情熱、夜に起きてでも日々を満たす彼の仕事への義務感だと思うと言ったの。しかしセサルはそこにさらに付け加えたの。「オラシオはいつも機嫌がいいんだ。いつもジョークを用意していて、うらみつらみを持たない。映画で見たとおり、彼はその音楽で知られているだけではなく、ジョークでも有名だ。幸せに生きているんだ。」

・映画の中であなたがもっとも気に入っているシーンはどこですか?
-それは難しい質問ね。小さな円形のピアノのシーンかな...これを撮影した日のエネルギーを思い出すからね...その時父と子が初めて一緒に演奏した瞬間だったのよ! しかも演奏できないピアノで! 彼らがメロディーを口ずさみ始めた時、まるでいつも一緒に弾いていたかのようで、あの瞬間の美しさと詩的な感じは信じられなかったわ。
 オラシオが軽食を取りながら、セサルがいつものように料理をしているシーンも大好きだわ。このシーンは長いのだけど、小さなアパートで空間を分け合っているにも関わらず、オラシオとセサルの間にある沈黙と離れ離れだった経験を物語っているわ。このシーンを見ると、私はこんなに親密なところを撮影させてくれたオラシオとセサルのやさしさに大きな感謝の気持ちを感じるの。

・映画に出てくるあのピアノは映画のために作ったのですか?
-あれはアルゼンチンの芸術家フリオ・フィエロの作品で「ピアノの花」という名前なの。フリオは私の友人で、そのピアノを見たとき、一目で気に入って、ポスターに使うことにしたの。写真をとったのは写真家のカルロス・フルマン。丸いピアノはこの父と子の物語のメタファーになっている。結局2人が再会するのを助けたのはピアノなわけだし。

・今後の映画製作の予定はありますか?
-今ちょうど「とろ火で」温めているテーマがあるわ。ダンスに結びつけたタンゴの映画をもう一本作りたいわね。あとはアルゼンチンのスーフィー教徒のドキュメンタリー、アルゼンチンとインドで撮影するロマンティックなコメディーとかね。

・日本の皆さんにメッセージを
-今年、福岡の桜タンゴ・フェスティバルで「サルガン&サルガン」が公開されたことにはとても感謝しています。願わくば日本での上映がもっと続くといいと思います。この映画はとても注意を払い、たくさんの愛を持って作った映画です。大半は手持ちのカメラで私が撮影しました。ごく一部だけ、例えば広い固定されたアングルが必要なセサルのアパートでは三脚を使いましたが、これは間違いなく、小津安二郎監督作品の「東京物語」の撮り方に影響されたものです。シンプルなジェスチャーで人間らしい感情の複雑さを表現する小津の才能には驚かされます。私のちっぽけなドキュメンタリーでは小津作品の足元にも及びませんが、タンゴの2人のマエストロというだけでなく、2人の愛すべき人間を親密にとらえることを可能にしたと思います。アルゼンチンと日本は、あまりに遠く離れている国ですが、サルガン父子や小津のような偉大なマエストロたちが、そのアートによって、我々がたくさんのことを共通に持っていることを発見する手助けをしてくれているのです。

・前作「シ・ソス・ブルーホ」から「サルガン&サルガン」に至るまで、監督として変化した点はありますか?
-「シ・ソス・ブルーホ」で私が好きなシーンは、エミリオ・バルカルセがバンドネオンを台所で弾き、娘さんが歌って、エミリオの奥さんのリディアとイグナシオ・バルチャウスキーと飼い犬が聴衆になって聞いているシーンなの。それはとても個人的で親密なシーンだと思うの。「サルガン&サルガン」を撮り始めた時、私の望みは「すべてがこの台所」のようになることだったの。共同脚本家のアルベルト・ムニョスと一緒に、まず私たちは教示的な要素に関しては語りの筋を優先することにしたの。「サルガン&サルガン」ではまだ語りの要素としてインタビューを使っているわ。たぶん次作ではその使い方をやめるかもしれない。インタビューは単に情報を共有する方法であるだけではなく、インタビューされた人がどのようにして自分の歴史を作ってきたか、その人が世界に自分をどのようにプレゼンテーションしているかを見せる方法でもあるわ。私たちはいつもインタビューで話された以上のことを映画で明らかにしているし、そのメタ・インフォメーションに私はとても興味があるの。

幻の名曲「ラ・シルエタ」とオルケスタ・ティピカ・アルヘンティーナ

幻の名曲「ラ・シルエタ」とオルケスタ・ティピカ・アルヘンティーナ

 去る4月3日、東京・雑司が谷のタンゴ・ライヴ・ハウス「エル・チョクロ」で「中田智也とシン・ノンブレ」の公演を観てきた。ちょうど前日4月2日のシン・フロンテーラス来日公演をエル・チョクロさんにお願いして、私も通訳でお手伝いしたので、翌日まで東京滞在を延ばしてシン・ノンブレ公演を観てきたのだ。

 中田智也さんは今80歳のバイオリニストで編曲家。1950年代末からタンゴ界で活躍してこられた。「シン・ノンブレ」(「名無し」の意)は長年の同僚である、同じく80歳の大原一駒(バンドネオン)と、丸野綾子(ピアノ)、宮越建政(バイオリン)ら若手で構成されたオルケスタで、ここしばらく年2~3回「エル・チョクロ」で定期公演を行っているが、早いと1ヶ月前には満席になってしまうという人気ぶりだ。
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智也さんは中田修(バンドネオン、アコーディオン、ギター)率いるオルケスタ・ティピカ・アルヘンティーナ、同じバンドが1965年頃に改称した中田修と東京ラティーノスでも活躍していた。このバンドには今も中田智也と共に演奏する大原一駒(バンドネオン)の他、盛岡で長く活動を続けている森川倶志(バンドネオン)や平吉毅州(ピアノ、1936-1998)もいた。平吉は音楽大学の学生時代にアルバイトでタンゴを演奏し、編曲も手がけるようになるが、後に日本屈指の現代音楽作曲家として、また数多くの合唱曲や子供のためのピアノ曲の作曲、そして桐朋学園などで数多くの後進を育てたことでも知られる人物である。その平吉が唯一作曲したタンゴが「ラ・シルエタ」(シルエット) La siluetaであり、その初演はオルケスタ・ティピカ・アルヘンティーナだったそうだ。当時の日本のタンゴ楽団のレパートリーの多くはアルゼンチンの楽団のレコードコピーであり(これは聴きに来る人の要望でもあったのだが)、純然たるオリジナル作品と呼べるのは、ティピカ東京が演奏していた赤堀文雄作「東京生まれ」Nació en Tokioと、この「ラ・シルエタ」を除けばほぼ皆無といってよい。

「ラ・シルエタ」はアストル・ピアソラの初期の作風を消化した現代タンゴであり、日本人らしい感性も表現された大傑作である。公式録音はカルロス・ガルシーアのタンゴ・オールスターズによる1972年のもの(LPはビクターSWX7040「ラ・クンパルシータ」で発売、その後 VICP-60906でCD化)、ほぼ同時期のオスバルド・レケーナ楽団のもの(LPはフォノグラム SFX-6028「タンゴで挨拶」、原盤はアルゼンチン・ミクロフォン、未CD化)、そしてだいぶ時代が下がって1999年の小松亮太のスーパーノネット(CDソニー SRCR2465)「来るべきもの」)による3種しかない。最初の録音2種がアルゼンチンの楽団によるものであることも示唆しているが、この作品は戦後本格的タンゴ演奏を目指してきた日本のタンゴ界の到達点であり、現在多くの若手の音楽家たちがオリジナルを手がけるようになる、その原点とも言ってもいいだろう。

 シン・ノンブレの4月3日の公演では、「ラ・シルエタ」は第2部の最後に演奏された。アルゼンチンの2楽団の演奏では省かれていた部分が入っているので、小松亮太版と基本アレンジは同じだ。実は私の手元に1970年代初めの坂本政一とオクテート・ポルテニヤ(当時のバンドネオンは京谷弘司と門奈紀生)のFMラジオ放送音源があるのだが、やはり同じ編曲で、おそらくは平吉自身の編曲なのだろう。オルケスタ・ティピカ・アルヘンティーナの初演の際もほぼこの形だったはずだ。
当日会場には故・平吉氏の奥様がいらっしゃっており、せっかくなのでご挨拶させていただいたが、「平吉は自分の作品が演奏されるのをとっても嬉しがっていました。(「ラ・シルエタ」は)難しいかしらね?」とおっしゃられていた。今の演奏家には決して難しい曲ではないと思うし、その素晴らしさは今だからこそなお一層感じられる。

 残念ながらティピカ・アルヘンティーナの演奏する「ラ・シルエタ」は録音に残っていない。私の知る限り、中田修とオルケスタ・ティピカ・アルヘンティーナの録音はソノシートに5曲残されているだけである。1962年10月発売のもので、「エル・チョクロ」「ラ・モローチャ」「インスピラシオン」「ガウチョの嘆き」「淡き光に」が収録されている(残り3曲は早川真平のオルケスタ・ティピカ東京の演奏)。デ・アンジェリス・スタイルを取り入れた「エル・チョクロ」など実に爽快で、ベテランのティピカ東京やティピカ・ポルテニヤと一線を画したフレッシュなスタイルで挑もうとしていた意欲がうかがえる。以下のソノシートに掲載されているティピカ・アルヘンティーナの写真だが、どうにもオリジナルが小さいので...。
Tipica Aregntina Tipica Tokio Sono-Seat SonoJournal 68 F 136 Tipica Aregntina Tipica Tokio Sono-Seat SonoJournal 68135

ちなみに今回智也さんに教えていただいたところでは、1963年ビクターに録音されたリカルド・フランシア楽団のレコード「あなたとタンゴの一夜を」(SJL-5049)のメンバーも中田修楽団なのだそうだ(63年ならティピカ・アルヘンティーナ当時ということになる)。それ以前のフランシア楽団のポリドールでのレコーディングでは小沢泰のオルケスタ・ティピカ・コリエンテスが手伝っていたので、これはちょっと意外だ。

1964~65年から「東京ラティーノス」と改称、メンバーの管楽器や打楽器への持ち替えも多用して、ラテン調も含めた幅広いレパートリーで活躍した。私の手元には5枚の東京ラティーノスのレコードがある。コロムビアで「赤い靴のタンゴ~ロマンチックリサイタル」(ALS-4117)、「雨に咲く花~ロマンチック・リサイタル第2集」(ALS-4149)、「ポップスデラックスシリーズ タンゴ」(JDX-12)、「魅惑の歌謡ヒット12~星を見ないで」(ALS-4363)の4枚、ポリドールで浜口庫之助の作品集「夜霧よ今夜もありがとう~浜口庫之助ヒット・メロディー集」(SLJM-1369)である。JDX-12以外はすべて日本の歌謡曲の器楽演奏アレンジである。このほかに東芝製作の本とレコードがセットになったシリーズに片面がティピカ東京、片面が東京ラティーノス(なぜか東京ラテノウスと誤記されている)というレコードがあるが、聞いた感じでは他とは別の録音に思える。ちなみにリーダーだった中田修は3年ほど前に博多で亡くなられたそうです。
(なお、現在活躍しているラテンバンド、有馬忍と東京ラティーノスとはまったく無関係)
Osamu Nakada Tokyo Latinos Akai kutsu LP 223 Osamu Nakada Tokyo Latinos Tango LP 227

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