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映画「サルガン&サルガン」監督、キャロライン・ニール・インタビュー

いよいよこの6月15日でめでたく100歳の誕生日を迎えるアルゼンチン・タンゴの巨匠オラシオ・サルガン。そのサルガンと息子のセサルの数奇な親子関係を軸にしたドキュメンタリー映画「サルガン&サルガン 父と子のタンゴ」の監督、キャロライン・ニールのインタビューをお届けしよう。「サルガン&サルガン」は今年3月、福岡の桜タンゴ・フェスティバルで1回だけ限定公開されたが、現在名古屋と東京で上映できるよう筆者が画策中。この映画の内容が気になっている人も多いと思うので、まずはインタビューで子の映画について知っていただければと思う。

なお、映画の主人公オラシオ・サルガンの人生については今年の5月号、6月号、7月号の「ラティーナ」に3号連載の形で書いているのでぜひご参照を。
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「サルガン&サルガン 父と子のタンゴ」 キャロライン・ニール監督 メール・インタビュー

・いつどのようにオラシオ・サルガンの映画を作るプロジェクトはスタートしたのですか?
-有名人であるにもかかわらず、オラシオ・サルガンはメディアと大きなつながりを持たない、プライベートをあまり公にしない人物だった。おそらくオラシオと息子のセサルについてのドキュメンタリーを作るというアイデアは初めから受け入れられないだろうと思っていた。しかしタンゴビア・ブエノスアイレスのイグナシオ・バルチャウスキーとカルロス・ビジャルバが2008年の「サルガン・イヤー」のプロジェクトをオラシオに提案したの。そこには多くの活動が含まれていて、その中にはセサルのピアノを中心としてオルケスタ・ティピカを再編成してブエノスアイレスでコンサートを行い、ローマのタンゴ・フェスティバルに出演して、国立図書館の「ララス・パルティトゥーラス」シリーズにために録音を行い、やはり国立図書館と共同でサルガン自身の手によるオーケストラ・アレンジを本として出版することなどが含まれていた。素晴らしいプロジェクトだったわ。そこで私はそのプロジェクトを映像ドキュメンタリーとして記録することを依頼されたの。その時すでに私たちはオラシオとセサルが、長年コンタクトがなかった末に今の関係にあることは知っていたわ。サルガン父子と私たちが会った最初の夜に、もうこのエピソードが長編映画に匹敵する内容であることは明らかだった。2人はとても丁寧でフォーマルに互いを紳士的に扱う関係で、距離がある感じだった。でもそのまなざしには描くことができないほど複雑なストーリーがあったのね。

・なぜこのテーマを選んだのですか?
-オラシオとセサルと知り合った時、私は彼ら二人の歴史に、どんな父と子の間にもあるいくつかの普遍的なテーマ、つまり期待と畏敬、放棄と和解、憧れと怒り、距離とつながり、といったテーマがあると思ったの。私の父もちょうど1年前に亡くなったんだけど、私の父は医者で、私を医者にしたかった、でも私は薬学を選ばなかった。それは部分的には父の期待を果たせないかもしれないという恐れからだったわ。私はセサルが楽器演奏に取り組み、タンゴの天才の一人であり、アルゼンチンの生きた伝説である自分の父親の音楽を演奏する勇気をもったことをたたえたいと思うわ。そこで、相当大変なことであるにもかかわらず、なぜどうやってマエストロ・オラシオ・サルガンのあとを続いていこうとしたのかが知りたくなったの。

・あなたからみて、オラシオ・サルガンの長生きの秘訣はどこにあると思いますか?
-ちょうど昨晩セサルと同じ質問について話したところ。私は、それは彼の情熱、夜に起きてでも日々を満たす彼の仕事への義務感だと思うと言ったの。しかしセサルはそこにさらに付け加えたの。「オラシオはいつも機嫌がいいんだ。いつもジョークを用意していて、うらみつらみを持たない。映画で見たとおり、彼はその音楽で知られているだけではなく、ジョークでも有名だ。幸せに生きているんだ。」

・映画の中であなたがもっとも気に入っているシーンはどこですか?
-それは難しい質問ね。小さな円形のピアノのシーンかな...これを撮影した日のエネルギーを思い出すからね...その時父と子が初めて一緒に演奏した瞬間だったのよ! しかも演奏できないピアノで! 彼らがメロディーを口ずさみ始めた時、まるでいつも一緒に弾いていたかのようで、あの瞬間の美しさと詩的な感じは信じられなかったわ。
 オラシオが軽食を取りながら、セサルがいつものように料理をしているシーンも大好きだわ。このシーンは長いのだけど、小さなアパートで空間を分け合っているにも関わらず、オラシオとセサルの間にある沈黙と離れ離れだった経験を物語っているわ。このシーンを見ると、私はこんなに親密なところを撮影させてくれたオラシオとセサルのやさしさに大きな感謝の気持ちを感じるの。

・映画に出てくるあのピアノは映画のために作ったのですか?
-あれはアルゼンチンの芸術家フリオ・フィエロの作品で「ピアノの花」という名前なの。フリオは私の友人で、そのピアノを見たとき、一目で気に入って、ポスターに使うことにしたの。写真をとったのは写真家のカルロス・フルマン。丸いピアノはこの父と子の物語のメタファーになっている。結局2人が再会するのを助けたのはピアノなわけだし。

・今後の映画製作の予定はありますか?
-今ちょうど「とろ火で」温めているテーマがあるわ。ダンスに結びつけたタンゴの映画をもう一本作りたいわね。あとはアルゼンチンのスーフィー教徒のドキュメンタリー、アルゼンチンとインドで撮影するロマンティックなコメディーとかね。

・日本の皆さんにメッセージを
-今年、福岡の桜タンゴ・フェスティバルで「サルガン&サルガン」が公開されたことにはとても感謝しています。願わくば日本での上映がもっと続くといいと思います。この映画はとても注意を払い、たくさんの愛を持って作った映画です。大半は手持ちのカメラで私が撮影しました。ごく一部だけ、例えば広い固定されたアングルが必要なセサルのアパートでは三脚を使いましたが、これは間違いなく、小津安二郎監督作品の「東京物語」の撮り方に影響されたものです。シンプルなジェスチャーで人間らしい感情の複雑さを表現する小津の才能には驚かされます。私のちっぽけなドキュメンタリーでは小津作品の足元にも及びませんが、タンゴの2人のマエストロというだけでなく、2人の愛すべき人間を親密にとらえることを可能にしたと思います。アルゼンチンと日本は、あまりに遠く離れている国ですが、サルガン父子や小津のような偉大なマエストロたちが、そのアートによって、我々がたくさんのことを共通に持っていることを発見する手助けをしてくれているのです。

・前作「シ・ソス・ブルーホ」から「サルガン&サルガン」に至るまで、監督として変化した点はありますか?
-「シ・ソス・ブルーホ」で私が好きなシーンは、エミリオ・バルカルセがバンドネオンを台所で弾き、娘さんが歌って、エミリオの奥さんのリディアとイグナシオ・バルチャウスキーと飼い犬が聴衆になって聞いているシーンなの。それはとても個人的で親密なシーンだと思うの。「サルガン&サルガン」を撮り始めた時、私の望みは「すべてがこの台所」のようになることだったの。共同脚本家のアルベルト・ムニョスと一緒に、まず私たちは教示的な要素に関しては語りの筋を優先することにしたの。「サルガン&サルガン」ではまだ語りの要素としてインタビューを使っているわ。たぶん次作ではその使い方をやめるかもしれない。インタビューは単に情報を共有する方法であるだけではなく、インタビューされた人がどのようにして自分の歴史を作ってきたか、その人が世界に自分をどのようにプレゼンテーションしているかを見せる方法でもあるわ。私たちはいつもインタビューで話された以上のことを映画で明らかにしているし、そのメタ・インフォメーションに私はとても興味があるの。

幻の名曲「ラ・シルエタ」とオルケスタ・ティピカ・アルヘンティーナ

幻の名曲「ラ・シルエタ」とオルケスタ・ティピカ・アルヘンティーナ

 去る4月3日、東京・雑司が谷のタンゴ・ライヴ・ハウス「エル・チョクロ」で「中田智也とシン・ノンブレ」の公演を観てきた。ちょうど前日4月2日のシン・フロンテーラス来日公演をエル・チョクロさんにお願いして、私も通訳でお手伝いしたので、翌日まで東京滞在を延ばしてシン・ノンブレ公演を観てきたのだ。

 中田智也さんは今80歳のバイオリニストで編曲家。1950年代末からタンゴ界で活躍してこられた。「シン・ノンブレ」(「名無し」の意)は長年の同僚である、同じく80歳の大原一駒(バンドネオン)と、丸野綾子(ピアノ)、宮越建政(バイオリン)ら若手で構成されたオルケスタで、ここしばらく年2~3回「エル・チョクロ」で定期公演を行っているが、早いと1ヶ月前には満席になってしまうという人気ぶりだ。
Chaya Nakada 20160403509 Takekuni Hirayoshi F

智也さんは中田修(バンドネオン、アコーディオン、ギター)率いるオルケスタ・ティピカ・アルヘンティーナ、同じバンドが1965年頃に改称した中田修と東京ラティーノスでも活躍していた。このバンドには今も中田智也と共に演奏する大原一駒(バンドネオン)の他、盛岡で長く活動を続けている森川倶志(バンドネオン)や平吉毅州(ピアノ、1936-1998)もいた。平吉は音楽大学の学生時代にアルバイトでタンゴを演奏し、編曲も手がけるようになるが、後に日本屈指の現代音楽作曲家として、また数多くの合唱曲や子供のためのピアノ曲の作曲、そして桐朋学園などで数多くの後進を育てたことでも知られる人物である。その平吉が唯一作曲したタンゴが「ラ・シルエタ」(シルエット) La siluetaであり、その初演はオルケスタ・ティピカ・アルヘンティーナだったそうだ。当時の日本のタンゴ楽団のレパートリーの多くはアルゼンチンの楽団のレコードコピーであり(これは聴きに来る人の要望でもあったのだが)、純然たるオリジナル作品と呼べるのは、ティピカ東京が演奏していた赤堀文雄作「東京生まれ」Nació en Tokioと、この「ラ・シルエタ」を除けばほぼ皆無といってよい。

「ラ・シルエタ」はアストル・ピアソラの初期の作風を消化した現代タンゴであり、日本人らしい感性も表現された大傑作である。公式録音はカルロス・ガルシーアのタンゴ・オールスターズによる1972年のもの(LPはビクターSWX7040「ラ・クンパルシータ」で発売、その後 VICP-60906でCD化)、ほぼ同時期のオスバルド・レケーナ楽団のもの(LPはフォノグラム SFX-6028「タンゴで挨拶」、原盤はアルゼンチン・ミクロフォン、未CD化)、そしてだいぶ時代が下がって1999年の小松亮太のスーパーノネット(CDソニー SRCR2465)「来るべきもの」)による3種しかない。最初の録音2種がアルゼンチンの楽団によるものであることも示唆しているが、この作品は戦後本格的タンゴ演奏を目指してきた日本のタンゴ界の到達点であり、現在多くの若手の音楽家たちがオリジナルを手がけるようになる、その原点とも言ってもいいだろう。

 シン・ノンブレの4月3日の公演では、「ラ・シルエタ」は第2部の最後に演奏された。アルゼンチンの2楽団の演奏では省かれていた部分が入っているので、小松亮太版と基本アレンジは同じだ。実は私の手元に1970年代初めの坂本政一とオクテート・ポルテニヤ(当時のバンドネオンは京谷弘司と門奈紀生)のFMラジオ放送音源があるのだが、やはり同じ編曲で、おそらくは平吉自身の編曲なのだろう。オルケスタ・ティピカ・アルヘンティーナの初演の際もほぼこの形だったはずだ。
当日会場には故・平吉氏の奥様がいらっしゃっており、せっかくなのでご挨拶させていただいたが、「平吉は自分の作品が演奏されるのをとっても嬉しがっていました。(「ラ・シルエタ」は)難しいかしらね?」とおっしゃられていた。今の演奏家には決して難しい曲ではないと思うし、その素晴らしさは今だからこそなお一層感じられる。

 残念ながらティピカ・アルヘンティーナの演奏する「ラ・シルエタ」は録音に残っていない。私の知る限り、中田修とオルケスタ・ティピカ・アルヘンティーナの録音はソノシートに5曲残されているだけである。1962年10月発売のもので、「エル・チョクロ」「ラ・モローチャ」「インスピラシオン」「ガウチョの嘆き」「淡き光に」が収録されている(残り3曲は早川真平のオルケスタ・ティピカ東京の演奏)。デ・アンジェリス・スタイルを取り入れた「エル・チョクロ」など実に爽快で、ベテランのティピカ東京やティピカ・ポルテニヤと一線を画したフレッシュなスタイルで挑もうとしていた意欲がうかがえる。以下のソノシートに掲載されているティピカ・アルヘンティーナの写真だが、どうにもオリジナルが小さいので...。
Tipica Aregntina Tipica Tokio Sono-Seat SonoJournal 68 F 136 Tipica Aregntina Tipica Tokio Sono-Seat SonoJournal 68135

ちなみに今回智也さんに教えていただいたところでは、1963年ビクターに録音されたリカルド・フランシア楽団のレコード「あなたとタンゴの一夜を」(SJL-5049)のメンバーも中田修楽団なのだそうだ(63年ならティピカ・アルヘンティーナ当時ということになる)。それ以前のフランシア楽団のポリドールでのレコーディングでは小沢泰のオルケスタ・ティピカ・コリエンテスが手伝っていたので、これはちょっと意外だ。

1964~65年から「東京ラティーノス」と改称、メンバーの管楽器や打楽器への持ち替えも多用して、ラテン調も含めた幅広いレパートリーで活躍した。私の手元には5枚の東京ラティーノスのレコードがある。コロムビアで「赤い靴のタンゴ~ロマンチックリサイタル」(ALS-4117)、「雨に咲く花~ロマンチック・リサイタル第2集」(ALS-4149)、「ポップスデラックスシリーズ タンゴ」(JDX-12)、「魅惑の歌謡ヒット12~星を見ないで」(ALS-4363)の4枚、ポリドールで浜口庫之助の作品集「夜霧よ今夜もありがとう~浜口庫之助ヒット・メロディー集」(SLJM-1369)である。JDX-12以外はすべて日本の歌謡曲の器楽演奏アレンジである。このほかに東芝製作の本とレコードがセットになったシリーズに片面がティピカ東京、片面が東京ラティーノス(なぜか東京ラテノウスと誤記されている)というレコードがあるが、聞いた感じでは他とは別の録音に思える。ちなみにリーダーだった中田修は3年ほど前に博多で亡くなられたそうです。
(なお、現在活躍しているラテンバンド、有馬忍と東京ラティーノスとはまったく無関係)
Osamu Nakada Tokyo Latinos Akai kutsu LP 223 Osamu Nakada Tokyo Latinos Tango LP 227

ウルグアイのピアニスト、ルイス・パスケーのこと

ウルグアイのピアニスト、ルイス・パスケーのこと

 ウルグアイのタンゴ史の中で、特に先進的な演奏活動について考えるとき、ピアニストのルイス・パスケー Luis Pasquetの名前は忘れられない。

 ルイス・パスケーは1917年、サルトの生まれ。同名の父はクラシックのギタリストで、パラグアイの巨人アグスティン・バリオスとも親交があったという、ウルグアイのギター普及の重要人物だったそうだ。地元でクラシックの勉強を始め、19歳でモンテビデオに上京、1940年代から主にジャズ界(特にディキシーランド・スタイル)で活躍し始める。1950年代にはラテン系・ブラジル系の演奏や歌手伴奏も器用にこなすようになり、一方で1958年から1972年までSODRE(ラジオの公共放送のための交響楽団)の指揮者となった。途中1965年から69年まではレバノンの首都ベイルートのカジノで演奏していたらしい。そのレバノン滞在の前後に現代タンゴ界にも大きな足跡を残す。
Luis Pasquet F 854Luis Pasquet Antar 6022B 484

 先頃亡くなった詩人オラシオ・フェレールも創立者の一人だったウルグアイの現代タンゴ鑑賞団体「エル・クルブ・デ・ラ・グアルディア・ヌエバ」の企画で制作したルイス・パスケー七重奏団の4曲入り17センチ盤「タンゴ」(1965年)はウルグアイ現代タンゴの一大傑作である。フランシスコ・デ・カロ作「死んだページ」、自作「スプレーン」、ピアソラ作「ピカソ」、グループでバンドネオンを担当してもいるオルディマル・カセレス作「バリオ・ラティーノ」という選曲で、会員向け頒布用の17センチ盤でしか発売されなかっため入手は難しいが、ウルグアイ・タンゴ史には欠かせない1枚である。

 その後レバノンから帰った後制作されたと思われるのがピアノ、バイオリン、チェロ、コントラバスという四重奏による室内楽的スタイルのアルバムCantares del Mundo CM-10 “Tangos en rojo y en gris”である。片面は「ケ・ノーチェ」「リアチュエロの霧」「ガジョ・シエゴ」「モンマルトルの朝」「ラ・カチーラ」「スール」という名曲を取りあげ、もう片面はパスケー作の組曲で、「生き生きとした赤色」「古い赤色」「炎の赤色」「灰色の雨」「夜更かしの灰色」「灰色のタンゴ」という「赤色と灰色のタンゴ」組曲である。アルゼンチンのレオ・リぺスケル率いる「タンゴ最初の弦楽四重奏団」よりも、ピアノが入っている分、アティリオ・スタンポーネの1970年代以降のスタイルや、ウルグアイのマノーロ・グアルディアが率いたカメラータ・デ・タンゴの行き方に近いものがある。このアルバムも全く復刻・再発されていないが、同じ編曲を「エル・クルブ・デ・ラ・グアルディア・ヌエバ」の例会で演奏した時のライヴ録音7曲(1971年)がCD復刻されており(AYUI A/M42 CD “El tango del Club de la Guardia Nueva 1”)、現在のところこれがパスケーの唯一のCDである。
Luis Pasquet Tangos en rojo y en gris LP mini855El Tango del Club de la Guardia Nueva CD 853

 ウルグアイを出る直前、1972年5月~6月にピアノ・ソロのアルバムAYUI A/M11”Interpreta doce tango en piano solo”を録音する。研ぎ澄まされた響きで、タンゴ・ロマンサを中心に最高のピアノ・ソロを聞かせる。決して録音の多くないホアキン・モラの作品「エスクラボ」「フリオ」「マス・アジャ」「椿姫」、フランシスコ・デ・カロの「エスケーラス」「青い夢」「ロカ・ボエミア」が白眉で、他にも「わが街の灯」「最後の酔い」「私の隠れ家」「孤独」「アディオス・アディオス・コラソン」(ウルグアイ製の1958年のヒット歌謡タンゴの方ではなく、フレセド楽団のピアニスト、エミリオ・バルバトとフェリクス・リペスケルが作曲した大変珍しい作品)などひたすら美しいメロディを演奏している。こちらも残念ながら全く復刻されていない。
Luis Pasquet Ayui AM11 LP 1972 851

 1972年パスケーは祖国を離れる。折しも極左都市ゲリラであるトゥパマロスと政府の交戦が激化、ピアノ・ソロを録音する1か月前に議会は内戦状態を宣言していた(現在のウルグアイの大統領「世界で一番貧しい大統領」としても知られるホセ・ムヒカは当時トゥパマロスの闘士で、まさにこの年逮捕・収監され以後13年間を刑務所で過ごすことになる)。  パスケーは最初はドイツに向かったようで、その年のうちにレクオーナ・キューバン・ボーイズのピアニストとしてドイツをツアーしたという(レクオーナ・キューバン・ボーイズは1971年に初来日公演を行っている。ちょっとタイミングが違ったらパスケーは日本に来ていたかもしれない)。
 そして1973年ウルグアイでついに軍事クーデターが起こり、パスケーはその政治的言動からパスポートの更新を拒否され、祖国に帰ることが出来ず、そのままヨーロッパへの亡命を余儀なくされる。最終的にはノルウェーに落ち着き、その後ヘルシンキのオペラのバレエ団の伴奏と音楽学校の教員として過ごしたそうだ。
 
 この才能ある音楽家ルイス・パスケーがどうしているのか、私は15年以上前からずっと気になっていたのだが、ウルグアイで訊いてもほとんどの人が消息を知らず、わずかにヨーロッパに行ってまったく帰ってきていない、ということしかわからなかった。
 そんな折、2013年9月、私も講演を行ったウルグアイのコロキアムの参加者、フィンランドに亡命したチリ人アルフォンソ・パディージャ氏にパスケーのことを知らないか訊いてみた。パディージャ氏は「その人物のことは聞いたことがある。でも首都から離れたところに住んでいるので会ったことはない」という話だった。

 その後フィンランド・タンゴをテーマにした映画「白夜のタンゴ」のことなどもあり、ふと思い出してWEBなどで確かめると、何と我々がコロキアムでパスケーの話をしていたそのわずか3週間前に、ルイス・パスケーはフィンランドのラーティで96歳の生涯を閉じていたことが分かった。ウルグアイの新聞にも訃報は出たが、その見出しは「ウルグアイで認められなかった重要な音楽家の死」というものだった。

 つい先日、彼の1957年の彼のピアノ・トリオによるジャズのアルバムを入手した。得意としたディキシーランド・スタイルではなく、とても洗練された音色でジャズのスタンダードをさらりと弾いているのだが、結局この辺がパスケーの音楽性の一番根底にあるもののような気がする。このアルバムもはるか昔に消滅したアンタール・テレフンケン・レーベルのものなので、復刻されることは無いだろう。
Luis Pasquet Trio ANtar LP 672

 あまり自己主張をしないウルグアイ人音楽家には時々あることなのだが、素晴らしい才能を持ちながらも器用さを買われていろいろな音楽に携わった結果、その偉大さが後世に伝わりにくい、というケースがある。しかもルイス・パスケーは長く祖国を離れてしまったため、余計その傾向が強まってしまったのだろう。
それでもジャズとタンゴを弾く彼のおだやかで華麗なピアノ・スタイルを聞くと、彼にとっては自然あふれる静かなフィンランドの生活は決して悪くなかったのだろう。

でも南米人にとってフィンランドは遠いのだろう。前述のウルグアイの新聞記事には堂々と「ルイス・パスケー、96歳でノルウェーで亡くなる」の見出しがついているのだ。本文中ではちゃんとオスロではなくヘルシンキと書かれているのに...
Luis Pasquet ultimos anos

カルロス・アギーレ講演会(名古屋、2010年)の講演録

2010年10月、カルロス・アギーレの初来日時名古屋公演の翌日に行われた講演会(西村秀人を聞き手とするインタビュー形式)の起こし原稿が、講演会を行った科研の成果として文章化されました。
科研代表者のご厚意でこのサイトで簡易版(日本語部分のみ)を公開いたします。スペイン語部分とインタビューに登場する人名などの注を含めた完全版は「名古屋大学レポジトリ」にある同科研講演録の一部としてご覧いただけます。当日の逐次訳のスタイルのままなので、スペイン語部分は日本語と交互になっており少し見にくいかもしれませんが、アーティストに関する注を細かくつけていますので、必要に応じてご覧いただければと思います。
名古屋大学レポジトリへのリンクはこちら

平成22年度~平成25年度科学研究費補助金基盤研究(C)課題番号22520559 
スペイン語・ポルトガル語近親言語文化圏間の外国語教育と相互理解の諸相(研究代表者・水戸博之)
カルロス・アギーレ講演会(聞き手・訳:西村秀人)

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*昨日のコンサートをお聞きにあった方もおられるかと思いますが、まず最初にアギーレさんがこのような音楽を演奏するもとになった、生まれた頃のことを少しお聞きしたいと思います。
あなたは1965年生まれ、つまり私より2つ年上ということになりますが、セギという場所のお生まれですね? お生まれになった頃のセギはどんなところでしたか?
(カルロス・アギーレ、以下CA)セギはとても小さな村で、人口3000人ほどでした。例えば私の家は中心から1ブロックのところにありましたが、もう1ブロックいけばもう野原でした。私が小さかった時は飲める水道もいなくて、道路も舗装されていませんでした。それぞれの家が水のための井戸を持っていました。時が経って今は道路も舗装されて、水道もありますが。小学校の同級生の多くは平原の方に住んでいたので、私が学校の課題をしに行くときは彼らの家から馬に乗っていったりしたものでした。小さい頃から自然や動物に親しんで、そういったものにすごく惹かれてきました。あまりにも好きだったので、子供の頃どのような仕事に就きたいか訊かれれば、動物に関する仕事をしたいと答えていました。

*音楽面ではどうでしたか?
(CA)私の両親の家には世界中のたくさんの音楽がありました。基本的にはクラシックですが、ジャズもたくさんあったし、ブラジル音楽や地方のフォルクローレもたくさんありました。馬に乗って友だちの家に行くようなこうしたささやかな生活の中で、私の家にあったいくつかの音楽は非常に特別なものに響きました。私は4歳か5歳でしたが、曲の歌詞をとても深く理解するようになって、その中にはアタウアルパ・ユパンキの曲のようにすごく感動したものがあったのを覚えています。その後時間が経ってから、私が感動したのは、私が子供の頃から知っている風景を歌っていたからだったのだとわかりました。
5歳の時、両親は私が音楽に関心があることに気がついて、楽器を勉強したいかと私に尋ねました。いまだになぜかはわからないのですが、私はピアノを弾きたいと答えました。私には7歳年上の兄がいて、ギターを弾いていたので、すでに音楽をやる人間は家にいたわけです。とても小さい時から寝るために聴くのを好んでいた数枚のレコードがありました。それらのレコードは、不思議なことに、ブラジルのエリス・レジーナのものだったり、ヴィニシウス・ヂ・モライスのものでした。


*セギはエントレリオス州の一部で、いわゆるリトラル地方ですが、リトラル地方の音楽というとチャマメやラスギード・ドブレといったフォルクローレがありますが、そういう音楽にはどのように接していたのですか?)
(CA)私の家で聞くことはあまりありませんでしたが、村のパーティなどではよく聞きました。当時アルゼンチンのフォルクローレとしてより広く普及していたのは北西部、トゥクマン州、サルタ州やメンドーサ州、サンティアゴ・デル・エステーロ州などの音楽でした。

*それはラジオの影響でもありますよね?
(CA)そうです。ラジオを通じて広く普及しました。

*当時はそのようにいろんな音楽を日常的に聞いていたということですが、ピアノの学習という点ではクラシックから始めなくてならなかったですよね?
(CA)そうです。地元の街の先生についてピアノを習い始め、14歳の時、パラナーへ移り住みました。でも11歳の時から、毎週通ってパラナーの先生であるグラシエラ・レカに習っていました。

*あなたの本の中ではこのグラシエラ・レカ先生がととてもあなたの人生にとって重要な人物だったと書かれていますね。
(CA)グラシエラは私の地方でも大変重要な先生で、ピアノに対しても、教えることに対しても、大きな愛を持った人でした。当時彼女について勉強することを決心したのは、そのとても重要な熱意にこたえなくてはいけないと思ったからです。

*あなたの本に出てきたエピソードに、サッカーよりもピアノを好んだことで変に思われたという話がありましたね。
(CA)それはまだセギの時代の話ですね。サッカーをしなかったわけではないけど、父は私が家にこもってピアノを弾いているのを見て、外でサッカーをしている子もいるよと言ってくれたことが何度もありましたが、でも私はピアノを選んでいました。その後パラナーに移った時には、私と同じように音楽を遊びとして選んだ多くの子どもたち、私と同じ年齢の少年たちに出会いました。それで孤独じゃなくて、同じ人がいるんだと少しは感じるようになりました。その後、音楽大学に入り、そこで授業をしていた同じ先生にずっとついていました。

*ポピュラー音楽への興味はどこから出てきたのですか?
(CA)実際には、クラシック音楽の先生について勉強はしていましたが、自分の家ではいろんな音楽を聴いて、それを再現しようとしたりしていました。特に兄と一緒に。兄は基本的にポピュラー音楽を演奏していたものですから。

*プロになったのは?
(CA)それは非常に自然なことだったと思います。いつプロになる決心をしたかわかりませんが、でも例えば15歳の時にはもう兄と一緒にブラジル音楽のグループのメンバーになっていました。私たちは地域のいろんな街で演奏しました。
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*その後の音楽活動にとって重要になったことは何ですか?
(CA)その後何か特別重要なことがあったというよりは、何かいつも呼吸しているようなもので...聴いたり勉強したりして音楽と接しているということはただ日常的な必要性でした。でもその後時間を経て、音楽を勉強することの意味はますます大きくなっていきました、というのも私は音楽が言語そのものであると感じたからです。音楽を通じてものすごい種類の考え方を表現出来ます、でもその考え方を探すためには自分の生き方とは異なる生き方が必要になるのです。

* 20歳の時、リオ・デ・ジャネイロで行われたラテンアメリカ・ポピュラー音楽ワークショップに参加されたことも重要だったのですね?
(CA)そのワークショップにはレオ・マスリア、シコ・ブアルキ、現代音楽の作曲家であるタト・タボルダといった人が先生として参加していました。コーラス・グループのボカ・リヴリのアレンジャーであるマウリシオ・マエストロも参加していました。このラテンアメリカのさまざまな場所から音楽家たちが集まったこの会で、私は大好きだったホルヘ・ファンデルモーレという人物と知り合う幸運にも恵まれました。

*ホルヘとの出会いはとても重要だったのですよね?
(CA)そうです、ホルヘ・ファンデルモーレは私が非常に称賛する音楽家で、偉大な作曲家で詩人です。彼は私にたくさんの本をすすめてくれました。

*その後もブラジルとのつながりは続くのですよね?
(CA)子供の頃から子守歌だったエリス・レジーナのレコードに始まり、いつもブラジルと接点を持ってきたのは当然で、いつも開かれていました。でもリオ・デ・ジャネイロへの旅のあと、ブラジルへの自発的な旅が始まり、さらにいろいろな音楽家と知り合ったのです。そして私のブラジルとのつながりがより強くなったのはバイーアの見本市があった2000年からです。そこでベンジャミン・タウブキンとつながりました。ベンジャミンはアルゼンチンを旅して、音楽を聴き、CDを持って帰り、いろんな場所を訪れました。その後少しして私は彼からバイーアで私のグループと一緒に演奏するように招待してくれました。そのツアー以来、ベンジャミンとより強いつながりが生まれて、さまざまなプロジェクトでブラジルをよく旅することになりました。ベンジャミンが住んでいるサン・パウロにはよく行きました。

*他にチリやペルーで活動されてますが、そのきっかけはどのようなものですか?
(CA) 1990年にペルー人ギタリストのルーチョ・ゴンサレスとプロジェクトを立ち上げました。当時ルーチョはアルゼンチンに住んでいたのですが、その時リマのペルーで、録音スタジオを管理しないかという提案を受けていました。そこでルーチョは私に助手になるよう申し出てくれ、私たちはリマに行くことになり、私は1年間過ごし、ルーチョはそのままリマに残っています。そのスタジオで行った仕事以外でも、私にとってはペルー音楽を学ぶ学校のようで、それまで録音で聞いてきた数多くの音楽家と一緒に演奏しました。この時さまざまなペルー人音楽家とつながりが出来たことで、私がアルゼンチンのパラナーに帰ってから、何年もの間ペルーを訪れることがなくても、ペルー人音楽家がパラナーに演奏に来るようになりました。

*ここでルーチョ・ゴンサレスとカルロス・アギーレの1990年録音を聞いてみましょう。一つお断りしてきますが、楽器のサウンドは今だといくぶん古い感じがすると思います。
<”Presintiendo”「予感しながら」を聞く>
Aguirre CD Lucho Gonzalez 100

*これはいわゆるジャズ=フュージョン系の音楽ですね? ジャズやフュージョンといった音楽もお好きなんですよね?
(CA) 1990年頃、私は他の音楽もよく聞いていて、当時はイエロージャケッツというバンドが大好きだった、というか今も好きです。あとエルメート・パスコアルとか、ウーゴ・ファトルーソが参加していたトリオのオパとかも。

*そしてその後チリとのつながりも出来たのですよね?
(CA)私がリマに住んでいた頃、チリに住んでいるペルー人コントラバス奏者であるエンリケ・ルナが私を訪ねてきました。ルナはアルゼンチンに帰る時には私の家に寄っていってくれ、それでチリにおける特別な機会を得たのでした。特別というのはチリの長年にわたるピノチェト独裁が終わり、民主主義が始まった時だったからです。私がチリに到着した日に、グルーポ・イラケレのミュージシャンとシルビオ・ロドリゲスによるとても重要な意味を持つリサイタルがナショナル・スタジアムで行われたのです。そのコンサートはチリの全ての人々にとって特別なものでした、それは何年も前から閉じられていたキューバとの関係を再び開くものだったからです。そのペルー人の友人を訪ねた私のチリへの旅は数カ月に延びました。というのはその後多くの音楽家たちと知り合い、さまざまなグループのメンバーとして活動することになったからです。とりわけ、私はチリの歴史的な瞬間に立ち会えたことをとてもうれしく思っています。

*そして今もチリのミュージシャンとは交流がありますね。
(CA)その旅以降、毎年訪れていますし、年に5回訪れた時や、数カ月滞在したこともありました。そして次第にチリにおける私の双子、つまりフォルクローレのさまざまな特徴を取り入れながら同じラインの音楽をやっているミュージシャンに出会っていったのです。この作業は私にとってたやすいことではありませんでした、というのは民主主義が始まったばかりのチリでは、ジャズのフェスティバルは多数行われていましたが、地元チリの音楽家のためのスペースは非常に少なかったからです。そこで私が少しずつそういったミュージシャンと知り合うためには何度も足を運ばなくてはならなかったのです。

*フランチェスカ・アンカローラとはどのように出会ったんですか?
(CA)私が実際に最初期に知り合ったチリの音楽家の一人に、作曲家・ギタリスト・マンドリン奏者のアントニオ・レストゥッチがいました。その後何年か経ってレストゥッチが紹介したいと言ってフランチェスカと知り合いました。私は最初に知り合った日に彼女の歌い方が大変気に入り、ラテンアメリカのさまざまな国の子守歌のアルバムを作るという考えに至りました。でもその時はそれを制作してくれる人がいませんでした。このアルバム<CD “Arrullos” (Shagrada Medra)>はフランチェスカと制作したい一連のアルバムの最初のものです、というのはまたここに含まれていない国の子守歌もあるのです。このアルバムにはとても美しい歌があります。このアルバムの我々の選曲の基準はそれぞれの国を代表する作曲家の作品、その中でも特にその国の現実を少しでも反映させた作品を探しました。だから私とフランチェスカはこのアルバムは子供を寝かしつけるためのものでもあるけど、両親を目覚めさせるものであると言っています。

<ここでアルバムの1曲目 “Gurisito”を聞く>
Aguirre CD Francesa Ancarola101

(CA)グリシートとは小さな男の子のことです。ウルグアイのダニエル・ビリエッティの作品です。この曲はカンドンベの一種です。

*アルゼンチンでも軍事政権を経験されていると思いますが、当時はどのように過ごされていましたか?
(CA)その時代、私は中学~高校に行っていました。禁止されていましたが、我々は小学校に集まって、そこを「学生センター」と呼んでいました。そこは学生間の交流の場で、我々は週刊で新聞を発行していました。しかしとても厳しい時代であり、いわば社会間のつながりが断たれた時代でした。まるで歴史のない国にいるようでした、自分が生きているその背景に何があるのか知ることがありませんでした。多くのアーティストが禁止され、その人々の作品はラジオやテレビで流れなくなり、誰もそうした作品にアクセスできなくなりました。それはアルゼンチンの赤狩りの中心的手法でした。私が高校を終えた時ちょうど民政に復帰しました。そしてその陰謀から回復するには何年もの歳月が必要でした、再び国を構築していくために歴史的、つまり過去にさかのぼることも必要でした。

*あなたのアルバムを聴いていると、あなたの音楽に変化があったことに気づきます。90年は非常にジャズとフュージョン的だが、今はよりリトラル音楽寄りです。この点についてはどう思われますか?
(CA)このことは先ほど軍政について言ったのと同じことが言えると思います。私自身、昔に何があったのかについてあまり情報を持っていなかったが、その後時間とともに勉強し、それら音楽が作られている場所を旅し、形式を写しとり、その音楽とより近いつながりを持つことが出来たのだと思います。私の街パラナー出身の歌手でマリア・シルバという人がいました。彼女は長年ブエノスアイレスに暮らし、フォルクローレの重要な音楽家と多数知り合いでした。その後彼女はパラナーに戻ってきて、私は彼女を数年間伴奏したのですが、チャチョ・ムリェールなど私に多くの重要な音楽家を紹介し、教えてくれました。それから何年も後、私はチャチョ・ムリェールの作品の多くを網羅したアルバムのアレンジをするよう要請され、非常に嬉しかったことがありました。

*なぜご自身のレーベル、シャグラダ・メドラを作られたのですか?
(CA)レーベルを作ったのは1990年でした。二人の友人といつもそのことを考えていたのです。というのは我々の音楽をブエノスアイレスのさまざまなレーベルに送っていたのですが、返事がなく、我々はアルバムを録音し発売することが出来ないでいたからです。そこで学んで自分たちのレーベルを作ることを始めました。一緒に作った二人の友人とはフルート奏者で作曲家のルイス・バルビエロとバイオリン奏者で作編曲家のラミーロ・ガジョです。3人でプロジェクトをはじめ、初めはカセットの形で制作していました。そのスタイルでの最初のアルバム、いや最初のうちの一つに「バリオ・トランキーロ」(静かな街)があります。これはラミーロ・ガジョ(バイオリン)、ルイス・バルビエロ(フルート)、マルティン・バスケス(ギター)のタンゴ・トリオによるものです。これによって我々は自分たちのアルバムをどうやって作って発売するかを学んでいきました。何度かやっていくうちに、地域の多くの音楽家たちと協力していけることに気づき、シャグラダ・メドラのカタログに数多くのパラナー、コルドバ、ロサリオのミュージシャンが加わっていきました。現在レーベルにはさまざまなラインナップがあり、その一つがアルゼンチンのさまざまな地域のギタリストによる「ギター・シリーズ」があります。このギターのシリーズには、例えばこのアルバムのように、造形芸術家によって編まれたお守りが入っています。それぞれがその演奏家が生まれた地域に暮らしてきた民族に属するデザインを持っています。というのはちょうど、これらの民族のいる場所を訪ねて回り、様々な色の織物を学んできた造形芸術家の女性アーティストと話しをしたところだったのです。

*他のアルバムにもいつもこうしたオリジナルな手づくりの装丁がなされていますよね?
(CA)そうですね。我々は手づくりのものが大好きで、多くのアルバムはデザインをシリーズ化する代わりに、小さなカードをつけました。最近日本でも発売された私のアルバム「クレマ」の場合には、それをアルバム1枚1枚に手書きしてつけています。

*それは大量生産への抵抗という意味合いもあるのでしょうか?
(CA)はい、これは我々の世界の見方の表現方法の一つであり、他でも同じことが起こってくれるといいなと思っています。我々はアルバムをイメージと音楽の統合された作品として考えたいと思っています。レーベルには、シンガーソングライターのシリーズもあり、そこにはホルヘ・ファンデルモーレ、アニバル・サンパージョ、チャコの作曲家であるコキ・オルティス、フアン・L.オルティスの詩を音楽化することを軸にしたプロジェクトであるルス・デ・アグアなどが含まれています。今ピアニストのシリーズも開始しており、アルゼンチンのさまざまな地域のピアニストたちが録音しているところです。リトラルの伝統を受け継いだロックのグループも発売したことがあります。音楽的にはいいやり方だとは思えないかもしれませんが、彼らは環境保護について語っていて、大半のテーマはパラナー川とその問題について言及しています。

Aguirre CD Crema 098Aguirre CD Violeta 099

*アルゼンチン音楽の現状についてはどのようにお考えですか?
(CA)幸い今はとても深い仕事をしている作曲家と演奏家がたくさんいると考えています。今は目に見えるような形での運動のようなものについて語ることはまだ出来ないが、近い将来具体的な運動という形で何かがあらわれてくると考えます。すでにあるのですが、何らかの名前を付けることは出来ない、そう考えています。非常に若い世代の中では、すべてのフォルクローレの伝統を持ちながら、かつ現代にも開かれた音楽性をもっているフアン・キンテーロが挙げられます。それから、チャマメやラスギード・ドブレといったリトラル音楽だけに基づいた作曲家であるコキ・オルティスもいます。ピアニストでは、リリアン・サバ、ノラ・サルモリア、ディエゴ・スキッシがおり、特にスキッシは優れた作曲家でもあります。都会音楽ということであればディエゴ・スキッシ同様ラミーロ・ガジョも重要な作曲家といえるし、ニコラス・レデスマもいます。あと、静かだがその他の表現として、例えばジャズの分野にいる音楽家たちは私にとって参照すべき知識になっています。特にジャズのアルゼンチン的な側面、ジャズのアルゼンチン式展開といった部分です。例えばその分野で私にとって最も重要な音楽家の一人がモノ・フォンタナことフアン・カルロス・フォンタナです。彼はアルゼンチン音楽における最重要人物の一人でもあると思います。それからエルネスト・ホドス、年齢は若いけどエルナン・ハシントも素晴らしいピアニストです。

*作詞はどのようにしているのですか?
(CA)たぶん17歳ぐらいのことだったと思いますが、作曲を始めました。その後ほどなく試みとして詩を書き始めます。でもそれは音楽をつけるつもりはなく、別の表現方法として考えていました。この表現方法はずっと続けましたが、発表する気はありませんでした。ただ物語が好きであり続けただけでした。そしてその2つの表現方法が交差する時期が来ました。私は一つの歌が出来ていくそのざわめきを大いに楽しんでいます。時として一つの歌が生まれるまでに数年、4~5年要することもあります。私は急ぎたくないし、その言葉では正しくないと感じることも多いのです。例えば昨日ここのコンサートでも演奏した曲「パサレーロ」は4年かかりました。そんな風にして他の曲では8年かかったものもありました。私は急がないし、そのプロセスを楽しんでいるのです。最後にこれだという言葉を見つけた時にはそれまでの孤独感も含めて大きな感動があります。一つの歌を作り終えるということは私にはますます時間のかかることになってきています。音楽をつけることも同じぐらい大変です。ある人が実際に一つの歌を作り終える決心をするということは、一生続けられるかもしれないプロセスを放棄することでもあるのです。
最後に一つ付け加えておきます。音楽に感謝します。音楽によって私は自分の国をたくさん旅することが出来て、多くの音楽家と知り合うことが出来、彼らも時間と共に知りあうことになるでしょう。彼らはとても小さな地域に住んでいて、マスメディアの周縁にいる人たちなのです。

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<フロアからの質疑・応答>

*先ほど聞いた古い録音で使っていたピアノのモデルは何でしょうか?
(CA)コルグの電子ピアノです。だから先ほど「古い音」と言ったのです。現在は本物のピアノで録音することを好みます。

*ロシアの映画監督でアンドレイ・タルコフスキーという方がおられて、その人の「ノスタルジア」という映画が好きなんですが、その中で水の音がすごく効果的に使われていて、その映画を見て以来水の音にすごく興味を持って、フィールド・レコーディングやサウンドアートなどいろいろな音を聞いたんですけど、アギーレさんがファースト・アルバムでやっているピアノと水の対比は他にないものだと思います。不思議なのはピアノの音もギターの音もアギーレ・グループでしか聞けないもののように思えるのですが、録音とかどのようにされているのでしょうか?
(CA)ピアノについて言えば、私はいつもエグベルト・ジスモンチなどが録音しているECMレーベルの録音、ピアノの音が大好きだった。そこで私はインターネットでそのレーベルの技術者のインタビュー記事がないか探したんだ。私がいつもミキシングなどで一緒に仕事をしている技術者と一緒に探してインタビューを見つけることが出来たんだ。ピアノの録音法はすごくシンプルなものだった。2本のマイクをこのポジションに置くだけ。マイクはAKG 414モデルだった。問題はピアノとマイクの距離だ。マイクを非常にピアノの近くに置く傾向があるが、ピアノから離れたところ、空中でもいろいろな音が生じている。だから近くで音を録れば、より遠くで発生するそういう響きはすべて失われてしまうのだ。そこで考えとしてはマイクを一定の距離をもって置くということ、逆に言えばピアノの中に頭を突っ込んで聞く人はいないわけなので。部屋の大きさにも配慮しつつ、他の2本のマイクは1.5~2メートルほどの距離に置きます。私はスタジオよりもホールで録音する方が好きです。

* あなたのアルバムにはタイトル名が書いていません。非常にイマジネーションを掻き立てていて良いと思うのですが、あえてそのようにした理由を教えてください。
(CA)「クレマ」(クリーム色)がそのやり方を始めた最初のアルバムです。私はこのアルバムを構成する一連の歌や曲がその色(クリーム色)を持っていると感じたのです。これは大変個人的な感じ方であって、他に人にとっては別の色かもしれない。でもこれが私の最初のアルバム、私の名義の最初のものであり、つまり私が毎日見ている風景に初めて接近したように感じたものです。私は風景を描いていますが、住んでいる場所からではない所から眺めた風景なのです。2枚目は「ロホ」(赤)ですが、これはその風景に暮らしている人々の問題について考えたアルバムなのです。それは血液の色ということで、ある造形芸術家とこのアルバムのコンセプトについて話し始めた時、我々はそれを母体の暖かさ、胎内にいた時の身体に残った記憶をイメージしたのです。そこで彼女は音楽を生む家を想定しました。不思議なことに我々がコンセプトについて話している何日かの間に、その造形芸術家の女性は自分が妊娠していることに気付いたのでした。なのでこのジャケット・デザインはとてもシンボリックで、彼女の自画像のようでもあります。3枚目は「ビオレタ」(すみれ色)で、すみれ色は精神性とつながりのある色です。それは非常に高いバイブレーションを持った色です。ジャケットデザインには瞳が映し出されています。しかし実際には内面を見つめているのです。したがってこのアルバムを構成する曲は、私のコンセプトでは内面への旅なのです。これが色を決めた理由であり、タイトル名を付していない訳です。ただ単に色の名前で呼んでいます。

*私は今回日本盤が出たことによって初めて詞の内容についてわかり、その詞の内容がサウンドと密接に関係していることが理解できました。訳がなかったら、これを理解することは難しいと思います。例えば、英語訳をつけることなどはお考えではりませんか? また、誰に向けて発信しているのでしょうか?
(CA)もちろん、でも難しいね。アイデアはいいと思いますが...一つの言語にこめられたすべてを翻訳するのは非常に難しいことです。加えて、私は音楽無しでも詩を、それが書かれたオリジナルの言語で聞くのが大好きです。たとえ単語はわからなくとも、詩にはそれ自体がもつ音楽性があって、翻訳ではそれは失われてしまいます。翻訳は意味を伝えることは出来ますが、音楽性は伝えることが出来ません。でも英語の翻訳をつけるということは人々に作品に近づいてもらうという意味ではたぶんいいアイデアだと思います。

*私はカルロス・アギーレさんの音楽にかなり衝撃を受けました。私のようにワールドミュージックを普段聞かない人間にとってフォルクローレと言うのは「コンドルは飛んでいく」のようなもっと古くさいものだと思っていました。しかしカルロスさんがさっきおっしゃったみたいに、あなたの音楽はフォルクローレにECMやキース・ジャレットやビル・エヴァンスだとかの影響が混ざり合って、あなたにしか作れない洗練された音楽になっていると思います。その音楽世界はジャンルでは説明できないとは思いますが、その中で自分の国の誇れる音楽家としてモノ・フォンタナの名前を挙げていたのがとても興味深く思いました。一般的にモノ・フォンタナの音楽は我々にとってはすごくエクスペリメンタルで、どちらかといえばエレクトロニック・ミュージックとかそちらの方からもアプローチしているアーティストだというイメージがあるのですが、しかしながら私自身は彼の音楽がジャンルや時代を超える、時代の壁を突破するような音楽の強さを持っていると感じています。本質的なところであなたの音楽と、ジャンルやスタイルは違ってもものすごく近いものを感じています。カルロスさんのアルバムごとに表現方法も変わってきていると思いますが、今後どのような変化をしていくのか興味があります。
(CA)ひとつコメントしておきます。少し前にディノ・サルーシと私は知り合いました。サルーシは深いフォルクローレの伝統を持ちつつ、音楽に対してとても開かれたまなざしをもった人です。彼と会うたびにたくさん話をするのですが、彼はいつも自分自身のフォルクローレのことを話します。彼の人生のある瞬間に、形式を繰り返すのではなく、フォルクローレの独自の見方が生まれ始めたというのです。フォルクローレが歴史的に作ってきたすべての音楽の深さを学ぶことは重要です。フォルクローレを博物館に飾られた遺品のように考えてはいけません。それは移動していく人間のようにダイナミックな表現なのです。アルゼンチンで私より若い音楽家たちに教えたり、助言をもとめられたりすることがあるのですが、私は今の作曲家がやっていることからは出発すべきではないと言っています。なぜなら彼らがフォルクローレのルーツを探せば、別の道も取れるはずだからです。フアン・キンテーロのクローンになってもしょうがないのです。アルゼンチンのリズムをベースに作曲をしている作曲家は多数いて、我々は特にダンスの様式を尊重しています。だからチャカレーラでもサンバでも、一定の小節数を持っています。アルバム「ビオレタ」の中では、そのリズムをベースにして作曲して、でも同じ小節数を守る必要はないと考えて新たな探求を始めました。音楽のアイデアがどれほどの長さにするかを決めたのです。もう一つ私にとってとても重要な側面はアルゼンチンのリズムの多くがアフリカの要素を持っているということです。私にとってそのことはとても重要です、というのは次回作ではアルゼンチン音楽のそうしたアフリカ的な面を取りもどすというコンセプトに基づいて作品を作る予定だからです。アルゼンチンも他の多くのラテンアメリカ諸国と同じく、重要なアフリカ系のコミュニティが存在していました。ブラジル、ウルグアイ、ペルーといった他の国々ではそれは明示的で、音楽にも表れています。アルゼンチンではこれらのアフリカ系コミュニティは多くの戦争に参加し死んでしまったり、混血していったりして、そのことが彼らの音楽を見えなくしてしまったのです。例えば私の街には昔黒人たち、モレーノたちの地区がありました。現在は太鼓を叩く伝統を取り戻そうとして、ウルグアイのようなジャマーダが行われています。パラナーでそのジャマーダを行うのは10月12日なのです。

<この後、カルロス・アギーレ氏によるピアノ演奏>

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ファン・ファルー来日に寄せて Bienvenido a Juan Falu

ついに来日するファン・ファルーの軌跡Juan Falu Lo Mejor165

アルゼンチン現代フォルクローレ界における最良のギタリスト・作曲家の一人、フアン・ファルーがまもなく来日公演を行う。数多くのCDや他アーティストへのゲスト参加などによって、その端正な弾きっぷりに惹かれた人も多いだろう。せっかくの機会なので、これまでフアン・ファルーが制作してきたアルバムをまとめておこう。
いつもフォルクローレ・アーティストを調べる時の拠り所であるDiccionario Biografico de la musica argentina de raiz folkloricaによると、アルベルト・フアン・ファルーは1948年10月10日、サン・ミゲル・デ・トゥクマン生まれ。アマチュアのギター愛好家だった父の影響を受けギターを始め、1966年、16歳の時にコンクールで優勝、記念に地元で制作されたオムニバス・アルバム”Tucuman canta a la Patria”に初録音を残したという。1976年から軍政を嫌ってブラジルに亡命、1984年まで滞在し、ブラジルでは「タランコン」というグループに参加した。帰国後数多くのアーティストとの共演が始まり、ギターを教える傍ら、アルゼンチン・フォルクローレの重要なプロジェクトやコンサート・シリーズに関わるようになる。以後ヨーロッパ、中南米各国、アジアなど海外公演も数多く、多くのアーティストの尊敬を集めるマエストロである。

これまで制作したアルバムは単独名義で10点ほど、共演盤はそれよりも数が多い。リストにはいれていないが、ゲストで数曲参加したものもかなりの数にのぼる。手元になくて内容未確認のものもいくつかあるのだが、一通りリストアップしておこう。

Cacto (Brasil) Canticorda / Deo Lopes & Juan Falu (1982)
Todas Las Voces Con la guitarra que tengo (1986) (Long Play)
Todas Las Voces Luz de giro (1987) (Long Play)
Circe De la raiz a la copa (1990) (Long Play)
Loco & Lev(Francia) La Saveur de la Terre / Juan Falu & Ricardo Moyano (1991) (Reedicion)
? Encuentro / Juan Falu & Chito Zeballos (en vivo en Neuquen)
EPSA Leguizamon-Castilla por Liliana Herrero & Juan Falu (2000)
EPSA Diez años / Juan Falu (2000)
EPSA Folklore argentino-Improvisaciones / Juan Falu & Marcelo Moguilevsky (2003)
EPSA A mi Ñano / Juan Falu
EPSA Encuentros y soledades / Juan Falu & Ricardo Moyano (1998)
EPSA Semites / Juan Falu & Marcelo Moguilevsky (2003)
EPSA Falu-Davalos por Liliana Herrero & Juan Falu (2004)
EPSA Manos a la obra / Juan Falu
EPSA En vivo Vendome-Francia / Juan Falu
Independiente  Coquita y alcohol / Juan Falu, Willy Gonzalez & Rodolfo Sanchez (2007)
Altais Music Manos en libertad / Jorge Cardoso & Juan Falu (2007)
EPSA Baisanos / Oscar Alem & Juan Falu (2009)
EPSA Lo mejor de Juan Falu (EPSAレーベルのベスト盤)(2011)
B&M Zonko querido / Juan Falu (2012) (2CD)
B&M En vivo 1995 – 2012 / Juan Falu (2012)
B&M Ronda de amigos / Juan Falu (2012)


やはり共演盤の多さが際立つ。もちろんソロも素晴らしいのだが、さまざまな個性を持った共演者やゲストと一緒だとさらに力を発揮する。旧作では歌手リリアナ・エレーロとの共演2枚がとにかく素晴らしいと思う。マルチ管楽器奏者のマルセロ・モギレフスキーとの共演は、かなりタイプのちがう2人が中和点を見つけて演奏している感じが面白い。キケ・シネシとモギレフスキーの共演と比較すると、楽器は同じでも基本スタンスがだいぶ違うような気がする。あと個人的にはオスカル・アレム(ピアノ)とのドュオ「バイサーノス」(2006年のライヴ録音だが、発売は2009年)がとても印象深かった作品だ。
Juan Falu Liliana Leguizamon 167Juan Falu Oscar Alem Baisanos168

最新作はB&Mレーベルだが、番号がなく、自主制作っぽいCD3組で、同じスタイルのジャケットデザインの色違いになっている。まだ日本に入ってきているのは2枚組の新録音「ソンコ・ケリード」だけだと思う(私もこの1点だけ昨年9月にアルゼンチンで買ってくることが出来た)。この「ソンコ・ケリード」はまさしくファン・ファルーの芸能生活50周年の集大成といえる内容で、CD2枚組計37曲すべてファン・ファルーの作曲で、歌の曲はロべルト・ジャコムッシ、ペペ・ヌニェスらの詞を得ている。ギター・ソロと弾き語りを中心に、バルバラ・ストレヘルのフルートが計10曲に参加(これがきりっとクラシカルでアルバム全体のアクセントになっている)、他にもルベン・ロボのパーカッション、リリアン・サバのピアノ、マルセロ・チオディのフルートなどの入る曲があり、ゲスト歌手でフアン・キンテーロ(2曲)、フロレンシア・ベルナレス、ビジ・コルテセが参加。1枚目と2枚目には大きな差はないが、2枚目の方がいつもとは少し異なるクラシカルなものやブラジル調の曲、ボレロまで含まれており、最後には弦楽五重奏団との組曲「ギターと弦楽五重奏のための5作品」が収録されている。
Juan Falu Zonko querido166

最新作あとの2点はフアン・ファルーのHPのディスコグラフィーに載っているもので、内容は未確認だが、曲目を見る限りかなり興味深く、特にさまざまなアーティストとの共演を集めた「ロンダ・デ・アミーゴス」にはすごい顔ぶれがずらりと並んでおり、ぜひ聞いてみたいものだ。

 昨年惜しくも世を去ったフアン・ファルーの叔父、エドゥアルド・ファルーの正確で的確な弾きっぷりを受け継いだ部分もあるが、、その音色はひたすら暖かく、時に「冷たい」と言われることもあったエドゥアルド・ファルーのクラシカルなスタイルとは一線を画しているとも言える。音楽性もより幅広く、アルゼンチン・フォルクローレの諸形式はもちろん、亡命時代を過ごしたブラジルで身に着けたものも潜在的に彼の音楽性の個性を形作っている。指導者としても大変重要な存在で、昨年私がブエノスアイレスで見たリリアン・サバ=マルセロ・チオディ=トリオMJCの共演コンサートも、もともとフアン・ファルー監修のコンサート・シリーズであった(その時フアンはヨーロッパ・ツアー中だったので現場には来なかった)。

 昨年来日ツアーを行って好評だった若手ギタリストのギジェルモ・リソットの音楽の、いわばより根っこに近い部分にあるのがファン・ファルーの音楽といっていいだろう。昨年リソットを聞いた方が今回ファン・ファルーの音を聞けばギターの音色にかなり多くの共通点を見出されるのではないかと思う。
 どんなレパートリーで今回の公演をまとめてくるのか、とても楽しみだ。
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